HISTORICAL PERSON · 2019年没

シドニー・ブレナー

南アフリカ生まれの生物学者。線虫を用いたアポトーシス研究により、2002年にノーベル生理学・医学賞を共同受賞した。

生涯
2019年没
死亡地
シンガポール共和国(南西社会開発協議会 / シンガポール)
出生地
南アフリカ共和国(ジャーミストン)
出典
世界地図
シンガポール共和国(南西社会開発協議会)

伝記

シドニー・ブレナーは、1927年1月13日に生まれ、2019年4月5日に没した南アフリカ出身の生物学者である。線虫を用いた研究により、ロバート・ホロビッツ、ジョン・サルストンとともに2002年のノーベル生理学・医学賞を受けた。

生まれは当時の南アフリカ連邦トランスヴァール州で、資料の一つは町の名をジャーミストンとしている。両親はユダヤ人の移民で、父はリトアニアから、母はラトビアのリガから南アフリカへ渡ったとされ、父は靴職人だった。ヨハネスブルグのウィットウォーターズランド大学に15歳で入り、医学を学んだ。在学中に、六年の医学課程を終えても医師として開業できる年齢に達しないことが在学2年目に判明し、先に解剖学と生理学の理学士課程を修めることになった。研究部長の組織学者ジョセフ・ギルマンに勧められて修士課程まで進み、奨学金が打ち切られたため実験助手として働いて生計を立てた。最初の科学論文は1945年に発表しており、修士論文は細胞遺伝学の分野であった。その後、医学の勉強に戻り、内科と外科をやり直して1951年に医学士の学位を得た。

医師として勤めたのち渡英し、王立委員会の奨学金を得てオックスフォード大学エクセター・カレッジで学んだ。指導教授はシリル・ヒンシェルウッドである。1953年4月には、フランシス・クリックとジェームズ・ワトソンが組み上げたDNAの構造模型を、ジャック・ダニッツ、ドロシー・ホジキンらとともに最初期に見た一人だったとされ、とりわけ強い感銘を受けた。のちにクリックとともにケンブリッジで研究し、1956年にケンブリッジの医学研究評議会分子生物学研究所に移った。1960年代には、クリックやワトソンらとともに、遺伝暗号の解読やメッセンジャーRNAの概念の提唱など、分子生物学の草創期に独創的な貢献をした。遺伝暗号が重なり合うことはあり得ないと示したことも、その一つとされる。

その後、同研究所で線虫(シー・エレガンス)をモデル生物とする発生研究を確立し、神経系の形成などを解き明かした。この線虫は体長1ミリメートルほどの土壌動物で、体が透明で、単純ながら多細胞生物としての体制をひととおり備え、飼育が容易で生活環も短く、遺伝学的な研究にも向いていた。ブレナーはこの生物でゲノムプロジェクトを立ち上げ、多細胞生物のゲノム研究の先駆けとなった。のちにトラフグのゲノム解読も手がけた。1965年に王立協会フェローに選ばれ、1971年にアルバート・ラスカー基礎医学研究賞、1978年と1991年にガードナー国際賞、1990年に京都賞、1991年にコプリ・メダル、2000年にラスカー・コシュランド医学特別業績賞など、多くの賞を受けた。1996年から2000年まで、米国のソーク研究所と、自ら設立した分子科学研究所で所長や科学ディレクターを務めた。

日本とも縁が深い。2005年の発足から2011年まで沖縄科学技術研究基盤整備機構の理事長を務め、沖縄科学技術大学院大学の創設に関わった。2017年春の叙勲では旭日大綬章を受けている。2019年4月5日、住まいのあるシンガポールで92歳で死去した。没後、沖縄県と促進県民会議により顕彰像が作られ、恩納村に建立されて2020年11月26日に除幕式が行われた。副知事の謝花喜一郎は、世界最高水準の大学院大学という壮大な構想を実現した偉業に、県民を代表して敬意と感謝を捧げると述べた。

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