HISTORICAL PERSON · 2013年没

ボリス・ベレゾフスキー

ロシアの企業家・政治家。数学者から実業家に転身して新興財閥のオリガルヒの代表的人物となり、エリツィン時代に台頭したが、プーチン時代に失脚して亡命した。

生涯
2013年没
死亡地
イギリス連邦(ウィンザー・アンド・メイデンヘッド / アスコット (バークシャー))
出生地
ロシア連邦(モスクワ)
出典
世界地図
イギリス連邦(ウィンザー・アンド・メイデンヘッド)

伝記

ボリス・アブラモヴィチ・ベレゾフスキーは、1946年1月23日にモスクワで生まれ、2013年3月23日にイギリスで亡くなったロシアの企業家、政治家である。応用数学の博士号を持ち、はじめは数学者として学問の世界に進んだが、のちに実業家に転身して、新興財閥(オリガルヒ)の一角、ロゴヴァズ・グループの総帥として成功した。エリツィン時代に台頭した政商の代表的な人物で、その暗躍から「政界の黒幕」とも称されたが、プーチンの時代に失脚して亡命した。

ユダヤ系ロシア人の家庭に生まれた。モスクワ林業技術大学を卒業して森林学を、次いで最適停止問題などの応用数学を研究し、数学で博士号を取得した。1969年ごろから管理研究所に研究員として勤め、ソ連科学アカデミーの会員となった。1989年、ヴォルガ自動車工場とイタリアの企業に関係する自動車販売会社ロゴヴァズを設立して社長に就任した。ロゴヴァズは国の輸出奨励政策を利用し、国産車を格安で仕入れて、輸出せずに公定価格で販売して多くの利益を上げ。巨利を得る一方で、敵対する者も多く、1994年に自動車を爆破されるなど、いくつかの暗殺未遂に遭った。

その後も事業を拡大し、大手石油会社シブネフチの設立に奔走し、事実上の支配下に置いた。アエロフロートなどの株式も次々に取得し、銀行も傘下に収めた。最も力を入れた部門の一つがメディア事業で、ロシア公共テレビ、民放のTV6、コメルサント紙、独立新聞、週刊誌などを支配下に置いたことで知られる。1996年の大統領選挙では、共産党のジュガーノフがエリツィンを僅差まで追い込んだ。ベレゾフスキー自身の説明によれば、前年1月のスイスのダボス会議で、共産主義者が復活するロシアから離れるようにとジョージ・ソロスから忠告されたことをきっかけに、ほかのオリガルヒと連絡を取り合い、積極的に政治に関わるようになった。傘下のメディアを使ってエリツィンの再選を後押しすることで、オリガルヒは一致し、この選挙を機にその影響力は政権内で増した。同年10月、ロシア安全保障会議の副書記に就任してチェチェン問題を担当し、1998年4月には独立国家共同体の執行書記となった。

1998年にプリマコフが首相になると、ベレゾフスキーは汚職を追及され、1999年3月に執行書記を解任された。しかしエリツィンがプリマコフを解任したため、まもなく復権した。1999年の下院選挙では、与党「統一」の選挙戦に大量の資金が流れたといわれ、自身もカラチャイ・チェルケス共和国の選挙区から立候補して当選し。2000年の大統領選挙ではウラジーミル・プーチンを支持したが、プーチンはオリガルヒの影響力を削ぎにかかった。対抗しようとして賛同者を得られず、同年7月に下院議員を辞職した。2001年にはロシア公共テレビの株式49%をロマン・アブラモヴィッチに売却せざるをえなくなり、最高検察庁がアエロフロートの資金の横領疑惑などで追及を強めたため、逮捕を恐れて国外に脱出した。2002年10月、本人不在のまま詐欺の罪で起訴された。亡命先のイギリスではプーチン政権への批判を続け、2007年のガーディアン紙のインタビューで、政権を武力で転覆しなければならないと発言し、ロシア政府の反発を招いた。

2013年3月23日、義理の息子がベレゾフスキーのイギリスでの死去を公表し、顧問弁護士は死因を自殺と述べた。妻との離婚訴訟の費用や慰謝料、アブラモヴィッチとの訴訟を抱え、美術品や古い自動車の収集品を次々に売却し、資金繰りに窮していたとされる。

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