伝記
ユスティナは、4世紀のローマ皇后である。340年頃に生まれ、388年に没した。ウァレンティニアヌス1世の2番目の妻で、皇帝ウァレンティニアヌス2世と皇后ガッラの母にあたる。
父はコンスタンティウス2世の下でピケヌムの総督を務めたユストゥスである。歴史家ソクラテスによれば、ユストゥスは自らの脇腹から帝王の紫衣を生み出す夢を見て、その話がコンスタンティウス2世の耳に入り、子孫から皇帝が出る前兆と推測した皇帝に殺害されたという。兄弟にはコンスタンティウスとケレアリスがいたことが知られている。出自については、コンスタンティヌス朝の血を引くとする説があり、クリスプスの孫か曾孫だとする説などが唱えられているが、確定はしていない。
ユスティナは最初、簒奪帝マグネンティウスと350年から353年まで結婚していた。この最初の結婚の時には、子をもうけるには若すぎたと伝えられる。370年頃、離婚したウァレンティニアヌス1世の2番目の妻となった。前妻の失脚をめぐっては、前妻セウェラが不正を働いて追放されたとする伝えと、セウェラ自身が二人を引き合わせたとする伝えがある。ユスティナは前妻の子グラティアヌスの継母となり、夫との間に息子ウァレンティニアヌス2世と、娘ガッラ、グラタ、ユスタの4人の子をもうけた。グラタとユスタは未婚のままで、392年にはまだ生きていたが、その後は記録に見えない。
375年にウァレンティニアヌス1世がアクィンクムで没すると、グラティアヌスが西の帝位を継いだ。ユスティナと幼い息子はシルミウムの近くに住んでいた。まもなく兄弟の将軍ケレアリスがこの幼い息子をアクィンクムへ連れて行き、軍隊は皇帝グラティアヌスに諮ることなく彼を皇帝に推戴した。その後ユスティナは、ウァレンティニアヌス2世とともにメディオラヌム(現ミラノ)へ移った。
教会史によれば、ユスティナはアリウス派のキリスト教徒で、夫の死後にこの教義を広めようとして、ニカイア派のミラノ司教アンブロシウスと対立したという。387年、マグヌス・マクシムスがイタリアへ侵攻すると、ユスティナは子供たちを連れてバルカンへ逃れた。テッサロニキで娘ガッラを東帝テオドシウス1世と結婚させ、その介入を得た。テオドシウスはマクシムスを攻めて破り、内戦を終わらせたが、その間にユスティナ自身は没した。テオドシウスにとって、ユスティナは義母にあたる。
同じ年に亡くなった人物
- シャープール3世 (388年没)
- メロバウデス (388年没)
- マグヌス・マクシムス (388年没)
- フラウィウス・ウィクトル (388年没)
- テミスティオス (388年)
同じ地域に関係する人物
- Eusebia (360年没)
- ドラグーティン・ディミトリエビッチ (1917年没)
- デマデス (紀元前318年没)
- アルケタス1世 (マケドニア王) (紀元前547年没)
- ロクサネ (紀元前309年没)