伝記
アンドリュー・フィールディング・ハクスリーは、1917年11月22日、ロンドンのハムステッドに生まれたイギリスの生理学者、生物物理学者である。作家で編集者のレナードと、その後妻ロザリンド・ブルースの末の息子で、異母兄に作家のオルダスと生物学者のジュリアンがおり、父方の祖父は生物学者のトマス・ヘンリー・ハクスリーである。12歳のころ、弟とともに両親から旋盤を贈られ、木製の燭台から動く内燃機関まで、様々な機械を設計し作る腕前を身につけた。この技術は生涯にわたり研究に役立ち、必要な特殊装置の多くを自作した。10代前半から顕微鏡にも生涯の関心を持った。ユニバーシティ・カレッジ・スクール、ウェストミンスター校で学び、奨学金を得てケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで自然科学を専攻した。技術者を志していたが、選択科目で生理学を取ったことをきっかけに進路を変えた。
1935年にケンブリッジに入り、1938年に学士号を得た。1939年、アメリカから戻ってトリニティ・カレッジの研究員となったアラン・ロイド・ホジキンの大学院生となった。ホジキンは神経線維を伝わる電気信号に関心を持ち、1935年から、カエルの坐骨神経で予備的な測定を行い、神経は単純な細長い電池であるという通説が誤りだと示唆していた。ホジキンの誘いで、この問題の研究に加わった。多くの神経細胞は小さく、当時の技術では調べにくかったため、プリマスの海洋生物学協会の研究室で、知られている中で最大の神経細胞をもつ大西洋のイカの巨大な軸索を使った。神経の興奮は数ミリ秒しか続かず、その間に神経の各所で電位の変化を測る必要があったが、ほとんど自分たちで設計し作った装置と、電気生理学の「膜電位固定法」の最も初期の応用により、イオンの電流を記録した。1939年に、神経線維の内側から活動電位を記録したことを、短い論文として発表した。
戦争が始まって研究は中断した。ハクスリーは英国の対空司令部に採用され、対空砲のレーダー制御に取り組み、のちに海軍省に移って砲術の仕事で、パトリック・ブラケットの班に加わった。1941年にトリニティ・カレッジの研究員に選ばれ、1946年に戦争が終わると、ホジキンとの共同研究を再開した。1952年に理論を発表した。この論文は、生化学の分野で世界で初めてコンピュータを使ったモデルの一つとなり、その後40年間の神経生物学のモデルの基礎となった。神経のインパルスを活動電位として数学的に説明する一連の微分方程式を作った。この仕事は、動物の神経系の理解に欠かせない電位依存性の膜チャネルの研究の基礎である。1963年にホジキンとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。二人はイオンチャネルの仮説を打ち立て、この仮説はわずか10年後に検証された。
1952年にドイツの生理学者ロルフ・ニーダーゲルケが加わり、1954年に骨格筋が縮むしくみとして、筋フィラメントが滑り込むという「滑り説」を共に見いだした。さらに、アクチンとミオシンの繊維上でミオシンが滑る原動力となる架橋の様子を、数学的に記述する方程式も考えた。1960年にユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの生理学部門の長となり、1969年には王立協会付きの教授になった。1955年に王立協会フェローに選ばれ、1980年から1985年まで会長を務め、1973年にはコプリ・メダルを受けた。1974年にナイトに叙され、1983年にメリット勲章を受けた。1947年にジョセリン・ピーズと結婚し、1男5女をもうけた。2012年5月30日に没した。
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