HISTORICAL PERSON · 2012年没

ラウフ・デンクタシュ

キプロス島のトルコ系住民の政治的指導者。1983年に独立した北キプロス・トルコ共和国の初代大統領となり、20年以上務めた。

生涯
2012年没
死亡地
キプロス(ニコシア地区 / 北ニコシア)
出生地
キプロス(パフォス)
出典
世界地図
キプロス(ニコシア地区)

伝記

ラウフ・デンクタシュは、1924年1月27日にキプロス島のパフォスで生まれたトルコ系キプロス人の政治家である。父は判事のライフ・メフメト・ベイ、母はエミネ・ハヌムといった。ニコシアのイギリス系の学校を出て、ファマグスタで通訳として働き、裁判所の書記や教師も経験した。その後イスタンブールとロンドンに渡り、はじめは教師の、のちには弁護士の資格を得るために学び、リンカーンズ・インで学んで1947年に卒業すると、帰国して弁護士として働いた。1948年にはイギリスの植民地統治下で、自治を求める協議会の一員に選ばれ、トルコ系住民の問題を扱う委員会にも加わった。1949年から1958年までは王室検事を務めたという。

1957年には、ギリシャとの併合を目指す組織の闘争に対抗するトルコ人抵抗組織の結成に主要な役割を果たし、キプロスの分割に向けて動いたとされる。1958年には国際連合の総会にトルコ系住民の代表として出席した。同じ年から、イギリス領キプロスにおけるトルコ系住民自治体の首席代表を務めたともされる。翌年のロンドン・チューリッヒ協定の準備ではトルコ政府に助言し、1960年にキプロスがイギリスから独立すると、トルコ系住民自治評議会の議長に選ばれた。1963年11月、マカリオス大統領がトルコ系住民の権利を緩める憲法修正案を示し、12月には準軍事的な行動がトルコ人に向けて始まって、トルコ系住民は政府から退いた。デンクタシュは協議のためアンカラに赴き、その後1964年から1968年まで、ギリシャ系の指導者に島への帰還を禁じられたという。1973年の選挙では、ファジル・キュチュクに代わって共和国の副大統領に就任した。

1974年7月15日にギリシャ系の軍事クーデターが起きると、トルコ系住民の安全を案じたトルコが軍を上陸させ、島の北部を占領した。8月14日の第二次進攻までに、トルコ軍は島の37パーセントを押さえたとされる。この後、デンクタシュはトルコ軍の占領下にあるトルコ系住民地区の代表となった。1975年にトルコ系住民地区がキプロス・トルコ人連邦国家の政府を立てるとその指導者となり、のちに同国の大統領になった。大統領になった時期は、1975年2月とも1976年ともいわれ、年は定まっていない。1983年11月、北キプロス・トルコ共和国の一方的な独立宣言に伴い、初代大統領に就任した。以後は選挙を重ねて20年以上にわたり大統領を務め、2000年4月には5選を果たした。この国を承認したのはトルコだけで、デンクタシュは1968年から、国際連合の仲介による和平交渉でトルコ系住民側の主要な交渉者だった。

2000年代に入ると、キプロスとトルコが欧州連合への加盟を望んだことで、合意に向けた努力が再び活発になった。2002年には北キプロスで、島の統一を求める大規模なデモが起きた。2004年2月、デンクタシュはギリシャ系住民との新たな交渉に臨んだが、最終的には、ギリシャ系のパパドプロス大統領とともに、アナン国連事務総長の下でまとめられた統合案に反対した。この案は2004年4月24日の住民投票でトルコ系住民の65パーセントに受け入れられたが、ギリシャ系住民の大多数には拒否された。デンクタシュは同年5月14日、次の選挙には立候補しないと表明した。2005年4月に選挙で当選したメフメト・アリ・タラートに大統領職を譲り、2012年1月13日、多臓器不全のためニコシアの病院で死去した。

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