伝記
オスカー・ニーマイヤーは、1907年12月15日に、当時ブラジルの首都だったリオデジャネイロで生まれた建築家である。ドイツ系の家庭に生まれ、本人は「自分にはインディオか黒人の血も混ざっているかもしれない。でもそれは私にとっては誇りである」と語っている。父はオスカー・ジ・ニーマイヤー・ソアーレス、母はデルフィーナ・リベイロ・ジ・アルメイダといい、母方の祖父は最高裁判所の判事を務めた人物で、その清廉な公人としての生き方に深い感銘を受けたという。若いころは屈託のない、ボヘミアン的な暮らしを送り、1928年に21歳でアニッタ・バルドと結婚した。
1929年に高校を卒業し、1934年にリオデジャネイロ国立芸術大学の建築学部を卒業した。1935年からルシオ・コスタとカルロス・レアンの設計事務所に勤め、旧教育保健省庁舎の設計に関わった。このときコスタが設計顧問としてル・コルビュジエを招いたことが、コルビュジエとの出会いにつながり、その影響を強く受けた。1940年、当時ベロオリゾンテの市長だったジュセリーノ・クビチェックと出会い、パンプーリャ湖畔の開発計画に参加した。ここでの一連の建物、とりわけサン・フランシスコ礼拝堂が内外で高く評価され、国際的な注目を集めるきっかけとなった。1945年にはブラジル共産党に入党した。
第二次世界大戦後の1952年には、ル・コルビュジエらとともにニューヨークの国際連合本部ビルの設計に加わった。1953年にはハーバード大学デザイン大学院の学部長に任命されたが、共産主義者であるとしてアメリカ政府がビザの発給を拒否した。1956年、大統領となったクビチェックの呼びかけで、新首都ブラジリアの建設に加わった。コンペを経て選ばれたルシオ・コスタの総合監修の下、大統領官邸のアルボラーダ宮殿、国会議事堂、最高裁判所、大聖堂、法務省、外務省などの主要な建物を設計した。首都は1960年に移された。ブラジリアのどの建築にも、ニーマイヤーのいう「自由な曲線」が多用され、1987年には近代都市として初めて世界遺産に登録された。
1960年代から1980年代の半ばにかけての軍事政権下では、左翼的な政治志向を嫌われ、ブラジル国内での設計活動を禁じられた。1967年、亡命に近い形でパリに移り住み、その後およそ20年はフランスを拠点に、フランス、イタリア、アルジェリアなどで設計を手がけ、パリのフランス共産党本部も設計している。1985年の民政復帰後にブラジルへ戻って活動を再開し、故郷のリオデジャネイロに暮らした。1992年から1996年までは、ブラジル共産党の党首を務めた。1988年にはプリツカー賞を受け、1989年にアストゥリアス皇太子賞、2004年には高松宮殿下記念世界文化賞を受けている。
キューバのフィデル・カストロとは親友で、カストロはかつて「ニーマイヤーと私はこの地球上で最後の共産主義者だ」と語ったとされる。晩年も仕事を続け、1996年のニテロイ現代美術館や2002年のオスカー・ニーマイヤー美術館などの作品を残した。2006年11月には秘書の女性と再婚したと報じられた。2012年12月5日、肺炎などのためリオデジャネイロの病院で、104歳で死去した。ブラジルが所有するニーマイヤー関連の設計図・著述・書簡などは、2013年にユネスコ記憶遺産に登録された。
同じ年に亡くなった人物
- ジャイメ・グラサ (2012年没)
- Mark Midler (2012年没)
- Oscar Rossi (2012年没)
- フィオレンツォ・マーニ (2012年没)
- ジョン・ジェイミーソン・カーズウェル・スマート (2012年没)
同じ地域に関係する人物
- Hercules de Miranda (1982年没)
- ジョアン・アヴェランジェ (2016年没)
- ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス (2018年没)
- アデミール・マルケス・デ・メネゼス (1996年没)
- ジョアン・ジルベルト (2019年没)