伝記
イツハク・シャミルは、1915年10月に生まれ、2012年6月30日に没したイスラエルの政治家である。生まれた日は10月15日とも22日ともいわれる。首相を二度、1983年から1984年と、1986年から1992年に務めた。旧姓はヤゼルニツキといい、のちにシャミルと改めた。
ロシア帝国領、その後ポーランド領となり、現在はベラルーシ領となっている村で、ユダヤ人の多い土地に生まれた。皮革工場の経営者の息子だったとされる。のちにビャウィストクに移り、ヘブライ語の高校で学び、若いころは修正主義シオニストの青年運動に加わった。ワルシャワ大学で法律を学んだが、途中でやめ、1935年にパレスチナへ移住した。経理事務所で働き、エルサレムのユダヤ大学で教育を受けたともされる。やがて武装組織エツェルに参加し、1940年に組織が分裂すると、アヴラハム・シュテルンが率いる組織に加わった。のちにシュテルン・ギャングとして知られるレヒである。英国当局に1941年に逮捕されたが、1942年にシュテルンが英軍に殺害されると、拘置所から逃亡し、1943年に改組されたレヒの三人の指導者の一人となった。1946年に再び逮捕されて再び脱走し、1949年にレヒが解散するまで組織を指導した。彼の指導のもとで、レヒは、1944年の英国の中東担当相モイン卿の暗殺と、1948年の国連の調停官ベルナドット伯爵の暗殺に関与した。
イスラエルの建国後、1955年から1965年までイスラエルの諜報機関モサドに加わり、エジプトやシリアに潜入して、元ナチのドイツ人技術者らによるロケット開発の情報収集と妨害の工作を行った。1960年代にソ連のユダヤ人の問題に関心を持ち、メナヘム・ベギンが創設したヘルート党に入党した。1973年にリクードからクネセトに選出され、1977年に国会議長となった。1977年のエジプトのサダト大統領のイスラエル訪問では、国会議長として迎えたが、キャンプ・デービッド合意とエジプト・イスラエル平和条約には反対し、クネセトの投票を棄権した。1980年に外相となり、1983年にベギンの後を継いで首相に就任した。
リクード内では強硬派として知られた。1991年1月、湾岸戦争でイラクがイスラエルにスカッドミサイルを撃ち込んだときには、アメリカの強い要求で、報復を自制した。同年5月には、エチオピアからユダヤ人を脱出させるソロモン作戦の実施を命じた。中東和平には概して消極的で、どんな譲歩にも反対したが、アメリカの圧力により渋々1991年のマドリード中東和平会議に参加した。それでも、パレスチナ解放機構との対話は拒む姿勢を変えなかった。1992年の選挙でイツハク・ラビンの率いる労働党に敗れ、リクードの党首から退いた。1999年には極右政党の国家統一党に参加して選挙に出たが、落選した。2001年にイスラエル賞を授与された。2012年6月30日、テルアビブ北郊のヘルツィリヤの養護施設で亡くなった。関係者によると、少なくとも6年間にわたって認知症を患っていたという。1989年にポーランド人をめぐる発言が外交問題となり、1996年に発言を撤回して謝罪した。
同じ年に亡くなった人物
- オマル・スレイマーン (2012年没)
- Ramaz Urushadze (2012年没)
- Jose Naranjo (2012年没)
- Stasys Stonkus (2012年没)
- ボブ・アンダーソン (フェンサー) (2012年没)
同じ地域に関係する人物
- イガエル・トゥマルキン (2021年没)
- アリク・アインシュタイン (2013年没)
- メナヘム・ベギン (1992年没)
- オフラ・ハザ (2000年没)
- アブラハム・シュロンスキー (1973年没)