伝記
フラウィウス・ユリウス・ウァレンスは、ローマ帝国の皇帝である。328年に生まれ、378年8月9日に没した。在位は364年から378年で、兄ウァレンティニアヌス1世より帝国東部を任され、共同統治を行った。ハドリアノポリスの戦い、いわゆるゴート戦争で敗死した。
生まれたのは、南パンノニアのキバラエ(現在のクロアチアのヴィンコヴツィ)で、イリュリア系ローマ人の家であった。兄ウァレンティニアヌスと同じく、父は有力な将軍グラティアヌス・フナリウスである。幼いころ、二人は家の所領で過ごし、父に伴ってアフリカへ渡った。父はアフリカ軍司令官に任命されたが、横領の嫌疑を受けてやがて職を離れた。その後、父はブリタニア軍司令官として復帰し、最後に領地へ退いたが、簒奪者マグネンティウスへの加担を疑われて、領地は皇帝コンスタンティウスに没収されたという。ウァレンスは兄のような勇気も持久力も持たない、体格に恵まれない人物と伝えられる。父や兄と同じく軍人の道を選び、ユリアヌス帝とヨウィアヌス帝の下で近衛の護衛官を務めた。経歴は取り立てて輝かしいものではなかったが、ヨウィアヌスが亡くなり、軍が兄ウァレンティニアヌスを皇帝に選ぶと、周囲の圧力で共同皇帝を立てる必要に迫られた兄は、弟の忠誠を確信して彼を選んだ。兄弟は権力と軍を分け、兄が西方を、ウァレンスが東方を治めた。
即位して間もなく、ウァレンスは反乱に直面した。365年、ユリアヌスの母方の親類プロコピウスが、自分こそ皇位継承者にふさわしいと主張して皇帝を僭称した。トラキアや小アジアの都市と軍隊が頻繁に帰属先を変える混乱のなか、366年にリディアのティアトリアで辛くも戦いに勝ち、同年5月27日にプロコピウスは処刑された。
内政では、兄弟は社会の弱い階層を守る行政改革を行い、貨幣の安定にも努めた。度重なる増税に歯止めをかける政策も取ったと伝えられる。宗教では熱狂的なアリウス派の信徒で、ニカイア信条を奉じる兄とは異なり、三位一体派に暴力を加えた。また、異教の知識人層には敵意があるとみなし、魔術の力を持つと信じて警戒したともいう。治世の多くは辺境の敵との戦いに費やされ、ヨーロッパではゴート族と(367年から369年、そして376年から378年)、小アジアではペルシア人と(373年)戦った。
376年ごろ、フン族の侵入に追われたゴート族が避難場所を求めて帝国領に移ってきた。ウァレンスはトラキアへの移住を許したが、のちにゴート族が暴動と略奪を起こしたため、鎮圧に向かった。378年、ハドリアノポリスの戦いで両軍は会戦したが、ローマ軍は完全に打ち破られ、ウァレンスも負傷した。最期については、歴史家アンミアヌスが二つの説を記す。一つは、皇帝らしい服を着ていなかったため遺体が分からず、適切に葬られなかったとするもので、もう一つは、負傷して運ばれた小さな木造の小屋がゴート族に焼かれたとするものである。後世の史料は彼を優柔不断で感情に左右されやすい凡庸な将軍と評し、猜疑心が強く、過度の恐怖心から多くの人を反逆罪で処刑させたとも伝える。この死が伝わると、弾圧されていた三位一体派は歓喜したといわれる。
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