HISTORICAL PERSON · 2011年没

松田直樹

群馬県出身の元サッカー選手で、ポジションはDF。元日本代表で、2002年ワールドカップの日本代表メンバーに選ばれた。中学まではFWだった。

生涯
2011年没
死亡地
日本(長野県 / 松本市)
出生地
日本(桐生市)
出典
世界地図
日本(長野県)

伝記

松田直樹は、1977年3月14日に群馬県桐生市で生まれた元プロサッカー選手で、ポジションはディフェンダーである。小学1年のとき、兄の影響でサッカーを始めた。地元の天沼FCには、小学3年から始める規定のところを特例で入団した。負けず嫌いの性格から、野球や水泳など様々なスポーツの中で、どうしても一番になれないサッカーに夢中になった。中学まではFWの選手だったが、U-15日本代表の監督小嶺忠敏が、前橋育英高校の山田耕介に、よいDFがいないかと相談したとき、FWでありながらDFの適性も持つ松田が推薦され、DF人生が始まった。前橋育英では、山田が現役時代に使った背番号14を与えられた。「超高校級」と言われ、当時のJリーグ12クラブのうち10クラブの争奪戦の末、1995年に横浜マリノスに加入した。

監督のホルヘ・ソラーリに「君は将来井原正巳を追い越す才能を持っている」と評価され、3月18日の開幕戦の鹿島アントラーズ戦で先発に抜擢された。9月30日にはプロ初ゴールを決め、チームはこの年に初めてリーグ王者に輝いた。1997年に右膝の半月板を損傷し、1998年に初めて手術を受けたが、復帰後はレギュラーに定着し、1999年に背番号を井原の4番のひとつ前の3番に改めた。2000年にはJリーグのベストイレブンに選ばれた。2003年から2年間は主将を務め、チームはリーグ連覇を果たした。2005年にはJリーグ通算250試合出場を達成した。1995年から15年間、クラブ一筋でプレーして「ミスターマリノス」と呼ばれたが、2010年11月にクラブから戦力外を通告され、翌月の退団セレモニーで「マジでサッカー好きなんすよ。マジでもっとサッカーやりたい」と語って去った。

2011年には、海外からの話もあったが、当時JFLの松本山雅FCと契約し、背番号3を付けて、主にセンターバックとして全15試合に出場し、1得点を挙げた。

代表では、U-15日本代表に招集されて以来、各世代の代表に選ばれた。1996年のアトランタ五輪には19歳4か月で出場し、日本のサッカー史上最年少の五輪出場となった。「マイアミの奇跡」として知られるブラジル戦で、ロナウドのマークを担当し、3試合すべてに出場した。トルシエが監督になると、「フラット3」の一角でプレーしたが、1999年に不満をあらわにして自ら代表を去った。2000年2月に再び招集されると、メキシコ戦でA代表デビューを果たし、シドニー五輪にも出場して、アジアカップの優勝に貢献した。2002年の日韓ワールドカップのメンバーに選ばれ、初戦のベルギー戦の後、選手だけで行ったミーティングで、「俺らは戦術に縛られすぎている」と発言した。この発言をきっかけに、ディフェンスラインを下げることを決め、チームは史上初のベスト16に進んだ。ジーコ監督になってからは控えにまわり、2005年3月のバーレーン戦でベンチ外が決まると、試合前に無断で帰宅した。以後は招集されなかった。国際Aマッチは通算40試合に出場して1得点であった。

2011年8月2日の朝、松本市の公園でチームの練習中に、突然「やばい、やばい」と言って倒れ、心肺停止の状態で病院に運ばれた。急性心筋梗塞と発表されたが、意識は戻らず、8月4日午後1時6分に亡くなった。34歳であった。横浜は背番号3を永久欠番にすると発表し、J1で初めてのことだった。練習場に自動体外式除細動器がなかったことから、日本サッカー協会は、2012年度から各リーグで試合や練習に常備することを義務づけた。

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