伝記
森孝慈は、1943年11月24日に広島県福山市で生まれたサッカー選手、指導者である。現役時代の位置は中盤で、日本代表として1968年のメキシコシティ五輪で銅メダルを獲得した。のちに「浦和レッズ生みの親」と称される。父の芳麿は教師で、原爆被災後の広島で街をさまよう孤児に衝撃を受け、広島湾の似島に似島学園を設立したことで知られる。兄の健兒は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の創設で大きな舵取り役を果たした人物である。
父の学園創設に伴って一家で似島へ移り、2歳から中学3年までそこで育った。小学4年からは毎日船に乗って島外の小学校へ通い、中学と高校は修道で学んだ。海で鍛えた泳ぎを買われて中学では水泳部にいたが、中学3年の卒業間際に親友の若山待久に誘われ、本格的にサッカーを始める。成績は常にトップクラスで、学級委員を務めたという。1956年に父を亡くしている。修道高校3年の1961年には国体で優勝し、同年の高校選手権でも釜本邦茂らを擁する山城高校を破って優勝し、高校の二冠を達成した。
1962年に早稲田大学に入学してア式蹴球部に入り、一年生からレギュラーを獲得した。釜本らとともに早稲田の黄金時代を築き、1964年の天皇杯では日立本社を3対0で破り、早稲田の26年ぶりの優勝に貢献した。1966年には主将を務め、天皇杯の決勝で東洋工業を破って優勝している。これが学生チームによる最後の天皇杯優勝となった。在学中の1964年に東京五輪の日本代表に選ばれ、以後1976年まで代表で活躍した。1967年に日本サッカーリーグの三菱重工に入団し、杉山隆一、横山謙三らと主力となり、1969年には4連覇中だった東洋工業を破って初優勝を遂げた。リーグ通算では146試合に出場して28得点、年間優秀11人賞を5回受けた。代表では主にストッパーとして1967年の五輪予選から国際Aマッチ32試合連続出場を記録し、メキシコ五輪では全試合に出て中盤を導いた。
知的なプレーぶりは指導者向きと日本サッカー協会の幹部から見込まれ、引退後は指導者の道を歩んだ。1979年に西ドイツへコーチ留学して1年間指導法を学び、1980年に日本代表監督の渡辺正が病に倒れたため呼び戻されて、川淵三郎監督のもとでコーチに就いた。川淵は名目上の監督で、事実上の指揮は森がとった。1981年4月から日本代表監督となり、アマチュアからプロへの端境期だった1980年代に代表を率いた。それまで勝利給はもちろん日当さえ出なかった代表の待遇改善にも尽力し、1982年から一日3千円の手当がつき、翌年には出場や勝利に応じた賞金も出るようになった。
ロサンゼルス五輪の最終予選では4戦全敗に終わったが、辞意を慰留され、1985年のワールドカップ予選で北朝鮮代表に日本として初めて勝つなどして、日本サッカー史上初のアジア最終予選に進んだ。守備の加藤久、都並敏史、松木安太郎、中盤の木村和司、前線の原博実らを擁した当時の代表は「森ファミリー」と呼ばれた。同年10月26日に国立競技場で行われた韓国との初戦は、代表戦で初めて国立が満員になったが、1対2で敗れ、ソウルでの第2戦も0対1で敗れた。森は「韓国と日本の差はプロであるかないかに尽きる」と述べ、プロ契約を求めたが受け入れられず、1986年3月3日に辞任した。この行動はのちのJリーグ創設につながる一滴になったといわれる。2011年7月17日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- エクトル・ヌニェス (2011年没)
- ジョージ・デボル (2011年没)
- ペーター・アレグザンダー (2011年没)
- ウィラード・ボイル (2011年没)
- スヴェトラーナ・アリルーエワ (2011年没)