伝記
ゲイリー・ムーアは、1952年4月4日に北アイルランドのベルファストで生まれたロック・ギタリスト、歌手、作曲家である。父は地元で知られた興行師で、クラブの経営にも携わっていた。小学生のころにピアノを習い始めたが、先生と合わず挫折し、10歳でギターを始めた。最初はシャドウズの曲をまねてばかりいたが、やがてジェフ・ベックやエリック・クラプトン、ジミ・ヘンドリックスの影響を受けるようになり、とくにピーター・グリーンから強い衝撃を受けて、プロのギタリストになる決意を固めた。14歳だった1966年には、グループで父の経営するクラブにレギュラー出演した。
1968年、交通事故で演奏できなくなったギタリストの代役として、ベルファストのアマチュア・グループに加わった。ダブリンでの巡業中に、歌手のブラッシュ・シールズに誘われて、スキッド・ロウというバンドに入った。メンバーには、ベースとボーカルのシールズ、ドラムのノエル・ブリッジマン、ボーカルのフィル・ライノット、そしてムーアがいた。1969年、アイルランドのレーベルからシングルでデビューし、ムーア作曲の曲が、彼の最初のシングルとなった。ライノットを解雇した後、フリートウッド・マックの前座を務めたとき、ピーター・グリーンに気に入られ、マネージャーを通じて大手レコード会社との契約を勧められた。1970年に最初のアルバム『スキッド』を出し、「キング・クリムゾンへのアイルランドからの回答」として売り出された。アメリカ・ツアーを2回行い、2度目にはグレイトフル・デッドの前座も務めた。1971年の夏には、34時間で録音されたことに由来する2作目のアルバムを出したが、同じ年の秋にバンドを去った。
1972年にロンドンで自分のバンドを結成し、1973年に初のリーダー・アルバム『グラインディング・ストーン』を出したが、売れずにバンドは自然に消えた。1974年には、旧友のライノットに乞われて、脱退したギタリストの代役としてシン・リジィで活動し、同年にジャズ・ロックのバンド、コロシアムIIを結成して、1975年から1978年に3枚のアルバムを残した。1978年8月にシン・リジィに正式に加入し、ソロとしても契約して、9月に初のソロ名義のアルバムを出した。ピーター・グリーンから譲り受けた1959年製のギブソン・レスポールによる演奏が印象的な「パリの散歩道」は、イギリスのシングル・チャートで8位を記録した。1979年7月、アメリカ・ツアー中に、マネージメントに嫌気がさしてグループを去った。
1980年代はハード・ロックやフュージョンを中心に活動した。ジェット・レコードと契約し、複雑なリズムを使うバンド、ジー・フォースを結成して、1980年にアルバムを出したが、活動はうまくいかず、解散した。1982年に新たにヴァージン・レコードと契約し、アルバム『コリドーズ・オブ・パワー』を出して、イギリスのアルバム・チャートで30位に入った。1983年1月には、本来1979年にシン・リジィの一員として来日するはずが、脱退で実現しなかったため、日本のファンの待望の初来日公演を行った。1985年にはライノットとの共演によるシングル「アウト・イン・ザ・フィールズ」が、イギリスで最高5位のヒットとなった。1987年には、故郷アイルランドを主題とするアルバム『ワイルド・フロンティア』を、前年に亡くなったライノットに捧げた。1990年代以降は、ブルース・ロックを軸に活躍した。2011年2月6日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ウィラード・ボイル (2011年没)
- アグスティン・ガルシア=ガスコ・ビセンテ (2011年没)
- ギル・スコット・ヘロン (2011年没)
- アリー・レザー・パフラヴィー (2011年没)
- ウォルト・ハザード (2011年没)
同じ地域に関係する人物
- インペリオ・アルヘンティーナ (2003年没)
- ヨルン・ブーレ (2007年没)
- マデリーン・キャロル (1987年没)
- アレン・カー (2006年没)
- Hakan Lidman (2000年没)