HISTORICAL PERSON · 2011年没

ワンガリ・マータイ

ケニアの環境保護活動家・政治家。2004年に環境分野の活動家、またアフリカ人女性として史上初のノーベル平和賞を受賞した。ナイロビ大学初の女性教授でもある。

生涯
2011年没
死亡地
ケニア共和国(ナイロビ)
出生地
ケニア共和国(ニエリ)
出典
世界地図
ケニア共和国(ナイロビ)

伝記

ワンガリ・ムータ・マータイは、1940年4月1日、ケニア中部のニエリ近郊の村イヒテに、キクユ人の農家の長女として生まれた環境保護活動家で、政治家でもある。6人きょうだいの一番上で、家事の多くを受け持った。1948年、母の強い意志で、ごく少数の女子しか進めなかった村の小学校に入学した。その後、リムルにあるカトリックの女子高校に進み、1959年に卒業して、1960年に、学生をアメリカの大学で学ばせる計画の奨学金を得た。アメリカのカンザス州のベネディクティン・カレッジで生物学を学び、1964年に学位を得た。続いてピッツバーグ大学で学んで修士号を取得し、1966年に帰国したが、すぐにドイツへ渡って、ミュンヘン大学で職を得た。その後、ナイロビ大学の獣医学部で研究助手として働き、1971年に獣医解剖学で博士号を取って、同大学の教授に就任した。のちに学部長にもなり、ナイロビ大学で初の女性教授となった。

1977年にグリーン・ベルト運動を設立し、土壌の浸食と砂漠化を防ぐ植林を始めた。ケニアでは薪や家畜の飼料を集めるのは女性の役目だったが、森林の破壊でそれらが乏しくなり、女性たちはますます遠くまで歩かなければならなくなっていた。村々や町のまわりに緑の帯をつくる植林は、この日々の問題に応えるためのものであった。最初は、地球の日に、環境運動に取り組むケニアの女性たちをたたえて、7本の木を植えたのが始まりである。女性たちが活動の中心に置かれ、運動は1986年にアフリカン・グリーン・ベルト・ネットワークと改称して、アフリカ全域に広がり、民主化や持続可能な開発の推進にも取り組んだ。

独裁政権下のケニアで、公然と政権を批判したため、数度逮捕され、投獄された。男尊女卑が根強い当時のケニアで、自己主張が強く信念を曲げない女性だったため、手に負えないと夫が国に訴え出て、離婚させられたこともあったという。ナイロビのウフル公園を、ダニエル・アラップ・モイ大統領の独裁政権が建てようとした高層ビルの計画から守ったことでも知られる。1997年には大統領選挙への立候補を試みたが、所属政党の説得で断念した。2002年に国会議員となり、2003年から環境・天然資源・野生動物省の副大臣を務めた。2005年3月28日にはアフリカ連合の経済社会文化理事会の初代議長に選ばれた。2007年の総選挙では落選した。

2004年12月10日、「持続可能な開発、民主主義と平和への貢献」により、環境分野の活動家として、またアフリカ人の女性として初めて、ノーベル平和賞を受賞した。ノーベル委員会は、ケニアの圧政的な前政権に果敢に立ち向かい、その運動が女性の地位向上を促したことをたたえた。2005年2月に京都議定書に関連する行事で来日した際、日本語の「もったいない」という言葉に感銘を受け、同年から「モッタイナイ」運動を展開した。2006年のトリノオリンピックの開会式では、オリンピック旗の旗手を務めた。1984年にライト・ライブリフッド賞、1991年にゴールドマン環境賞、2006年にレジオンドヌール勲章を受け、2009年には旭日大綬章を贈られ、同年12月に国連平和大使に任命された。

2011年9月25日、ナイロビの病院で卵巣癌により亡くなった。キバキ大統領が国葬とすることを決め、10月8日にウフル公園で営まれた。木を使わないでほしいという遺言に従い、竹やホテイアオイの繊維でつくった特製の棺に納められ、火葬された。当日は、子や孫たちによって、公園に1本の木が植えられた。

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