HISTORICAL PERSON · 2011年没

イタマール・フランコ

ブラジルの政治家。1992年から1995年まで大統領を務めたほか、上院議員、市長、大使、知事、副大統領を歴任した。技師として社会に出たのち政界入りした。

生涯
2011年没
死亡地
ブラジル連邦共和国(サンパウロ州 / サンパウロ)
出生地
大西洋
出典
世界地図
ブラジル連邦共和国(サンパウロ州)

伝記

イタマール・フランコは、1930年6月28日に、サルヴァドールとリオデジャネイロを結ぶ船の上で生まれたブラジルの政治家である。登録上の誕生日は1929年6月28日ともいわれる。父方にはドイツ系、母方にはイタリア系の血が流れ、父は誕生前に世を去っていた。名は船の名「イタ」と、ポルトガル語で海を意味する「マール」を合わせたものとされる。ミナスジェライス州のジュイス・デ・フォーラで育ち、1955年に技術学校を卒業して技術者になった。

1950年代の中ごろに政界入りし、ジュイス・デ・フォーラ市の市会議員や副市長を経て、2期にわたり市長を務めた。1974年に職を辞して連邦上院議員に当選し、軍政期に合法野党だったブラジル民主運動党の副党首を、1976年とその翌年に務めた。1982年に上院議員に再選され、1986年にはミナスジェライス州知事選に出馬して落選した。当時は大統領直接選挙の即時復活に力を注いだ。1987年の憲法制定国民議会では、人種差別を行う国々との断交を提案し、残業手当や土地改革のための基金の設立なども訴えた。

1989年の大統領選では、小政党の国家再建党に移って、フェルナンド・コロール・デ・メロ陣営の副大統領候補に抜てきされた。出身地のミナスジェライス州が大票田であったことや、汚職の疑惑が取り沙汰されたサルネイ大統領を公然と批判していたことが味方したとされる。選挙戦ではのちに大統領となるルーラ候補に僅差で勝った。副大統領の在任中は大統領と政策が合わず、とくに民営化をめぐって鋭く対立し、辞任をちらつかせたこともあった。

1992年、コロールが汚職容疑で告発されて国会が弾劾すると、フランコは10月から大統領代行となり、コロールが辞任した12月29日に正式に大統領へ就任した。就任時の世論調査では、国民の大多数が彼のことを知らなかったという。当時のブラジルは経済危機のさなかにあり、インフレ率は1992年に1110パーセント、翌年には2400パーセント近くに達していた。そこで財務相にフェルナンド・エンリケ・カルドーゾを充て、「レアル計画」を実施した結果、経済は安定してインフレも収束した。就任直前には自分の私有財産の目録を上院議員らに手渡すという一風変わったアピールもし、バランスを重視した内閣を組んで、支持率は出だしから60パーセントを超えた。

1993年4月には政治体制と統治体制を問う国民投票が行われ、共和制と大統領制がそれぞれ圧倒的多数で選ばれた。同年には軍などから議会閉鎖の圧力がかかったが動じなかった。この事件を「クーデター未遂」と見るメディアもあった。任期の終わりには支持率が8割台に達し、ブラジル史上最高を記録した。南アメリカ全域の自由貿易圏構想はクリントン大統領らから賞賛され、トラテロルコ条約などの主要条約を批准して、ブラジルを核不拡散の輪に乗せた。

1994年の大統領選では後継としてカルドーゾが当選したが、新大統領の民営化路線をフランコは酷評した。退任後はポルトガル大使、米州機構大使を歴任し、1998年にはミナスジェライス州知事選に勝利して、2003年まで務めた。のちにイタリア大使も務め、2010年には上院議員に当選して、死去するまで在任した。2011年5月に白血病でサンパウロの病院に入院し、肺炎を併発して、7月2日に死去した。ルセフ大統領は7日間の喪を宣言した。

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