伝記
ベティ・フォードは、1918年4月8日にイリノイ州シカゴで、エリザベス・アン・ブルーマーとして生まれた。父は産業供給のセールスマン、母はホーテンスといい、二人の兄がいた。ミシガン州グランドラピッズで育ち、8歳のころから母の勧めでダンススタジオに通い、バレエやタップ、モダンダンスを学んだ。ダンスに情熱を傾けて職業にしようと決め、14歳のころには世界恐慌後の暮らしを支えるために洋服のモデルをしたり、子供たちにフォックストロットやワルツなどの流行のダンスを教えたりした。障害のある子供たちとも関わり、高校在学中に自分のダンス教室も開いた。不況時代に自立した女性の代表だった当時のファーストレディ、エレノア・ルーズベルトから大きな影響を受けたという。
16歳のとき、父が自宅の車庫で一酸化炭素中毒により亡くなった。事故か自殺かは確認されていない。母は不動産業で一家を支えるようになり、その姿が、のちにベティが男女平等や同一賃金を支持する考えの形成に影響したといわれる。1936年に高校を卒業するとニューヨークでダンスを学びたがったが、母に反対され、バーモント州のベニントン舞踊学校で2夏を学んだ。ここでマーサ・グレアムに師事し、ニューヨークに移ってマンハッタンのチェルシーに住み、ジョン・ロバート・パワーズの会社でモデルをしながら学費を工面した。グレアムの補助グループに加わり、カーネギー・ホールの舞台にも立った。しかし母は娘がダンスの道に進むことに反対し、帰郷を求めたため、半年だけ家に戻って考え直すという折衷案になり、ベティはそのままグランドラピッズで暮らし続けた。
1942年に家具セールスマンのウィリアム・ウォーレンと結婚したが、性格の不一致から1947年に離婚した。その後、ミシガン大学のフットボール選手で、法学大学院を出て下院議員候補となったジェラルド・フォードと交際を始め、1948年10月15日に結婚した。この年の下院選がフォードの最初の選挙戦で、以後、一家は約30年にわたってワシントンで暮らした。3人の息子と1人の娘が生まれた。
1973年にジェラルド・フォードが副大統領となり、翌1974年にニクソン大統領の辞任を受けて大統領に昇任すると、ベティは1974年から1977年までファーストレディを務めた。政治的な問題についても自分の考えを率直に語り、過去の心理療法の体験を明かし、マリファナや婚前交渉についても肯定的な意見を述べた。テレビ番組のインタビューが論議を呼び、保守派の一部から批判されたが、世論調査での支持率は75パーセントに及んだという。男女平等憲法修正案や人工妊娠中絶の合法化も支持した。就任直後に乳がんで乳房切除術を受け、その体験を率直に語って、乳がんの早期発見への関心を高めた。芸術の支援にも熱心で、マーサ・グレアムが自由勲章を受章した最初の舞踊家となったのは、その努力によるとされる。
1978年ごろ、アルコール使用障害と鎮痛薬への依存のため、家族に促されて入院治療を受けた。回復後の1982年に、カリフォルニア州ランチョ・ミラージュで薬物依存の治療機関ベティ・フォード・センターを設立し、会長として活動を続けた。この名は、アメリカで依存症の治療機関を指す一般名詞のように使われるまでになった。1987年の著書でこの経験を詳しく語っている。1991年には自由勲章、夫とともに議会金メダルを受けた。2011年7月8日、カリフォルニア州パームスプリングス近郊の病院で、93歳で死去した。
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