伝記
オットー・フォン・ハプスブルクは1912年11月20日、最後のオーストリア皇帝となるカール大公と、妃ツィタの第一子、長男として生まれた。誕生時の皇位継承順位は第3位で、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は男児の誕生をことのほか喜んだ。新聞はいずれも、この大公が未来の君主になることを前提に報じたという。洗礼式は11月25日に営まれ、洗礼名には将来「フランツ・ヨーゼフ2世」として即位することを念頭に置いた名が連ねられたが、母ツィタは彼を「オットー」と呼んだ。
1914年6月のサラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が倒れ、父カールが新たな継承者になると、一家はフランツ・ヨーゼフ1世の願いでシェーンブルン宮殿に移り、老帝と同居した。老帝はとりわけ最年長のオットーを寵愛したという。1916年11月に老帝が崩御して父が皇帝に即位すると、オットーは4歳で皇太子となり、葬儀では両親に挟まれて行列の先頭に立った。同年12月、ブダペストで行われた父のハンガリー国王戴冠式にも出席し、人々の注目を集めて人気を得たとされる。
戦局が悪化すると、皇帝一家も国民と変わらない配給の暮らしを送るようになった。1918年10月、オットーは弟妹とともにハンガリーに留まっていたが、ブダペストで革命が起こったため、ハプスブルク家の紋章を塗りつぶした自動車でハンガリーを脱出し、過激派を避けて大きく迂回し、スロバキアを経由して一日に480キロを走り、ウィーンのシェーンブルンへ戻った。運転手は危険を避けるため、宮廷の制服を脱いで軍服に着替えたという。10月28日にオーストリア=ハンガリー帝国は連合国に降伏し、11月11日に父は「国事不関与」を宣言、共和国が樹立された。一家は翌1919年3月にスイスへ亡命し、4月には議会がハプスブルク法を可決した。父は復権を二度試みたが失敗し、1921年にポルトガル領マデイラ島へ流された。
オットーは1922年2月に母とともにマデイラ島へ渡ったが、2か月後の4月1日に父は肺炎で亡くなった。9歳のオットーは兄弟で唯一、父の重い病を知り、死に立ち会った。この日から「陛下」と呼ばれるようになったが、泣きながら、父の遺体が運ばれてからにしてほしいと周囲に告げたという。一家は、母がハプスブルク家の出身であるスペイン国王アルフォンソ13世に迎えられ、北部の漁村レケイティオの宮殿などで暮らした。困窮する中で地元の人々に支えられ、母が選んだ教師のもとで高度な教育を受け、ドイツ語、ハンガリー語、英語、スペイン語、フランス語、ラテン語などを流暢に話すようになった。1928年には16歳でルクセンブルクに移り、大学入学の準備を進めた。
成人後は、1930年代のオーストリアで君主制復活運動を指導し、ナチス・ドイツによる併合計画に対抗した。ヒトラーは彼をオーストリア併合の最大の障壁と見なしたとされる。第二次世界大戦中はアメリカに亡命し、ルーズベルト大統領やチャーチル首相と接触して、オーストリアの解放に尽力した。戦後は欧州議会議員や国際汎ヨーロッパ連合会長を務め、欧州統合を唱えた。大戦中には「ドナウ連邦」の樹立を提唱し、汎ヨーロッパ・ピクニックの中心人物の一人でもあった。2011年7月4日に世を去った。
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