伝記
セザリア・エヴォラは、1941年8月27日に、当時ポルトガル領だったカーボベルデのサン・ヴィセンテ島ミンデロで、7人きょうだいの一人として生まれた歌手である。カーボベルデを代表する音楽ジャンルのモルナを、母語のカーボベルデ・クレオール語で歌った。父ジュスティーノはヴァイオリン奏者だったが、彼女がまだ子どものころに亡くなった。母ジョアナは料理人や家政婦として働き、夫の死後、大勢の子どもをひとりで育てねばならなかった。家と植民地全体の貧しさのため、彼女はほとんど学校教育を受けなかった。祖母に育てられたのち、10歳のころには家族が養えなくなって孤児院に預けられた。
子どものころから歌い、16歳のとき、モルナやコラデイラを歌うよう勧めたギタリストと恋愛関係になり、地元の酒場で歌い始めた。ミンデロは国際的な港町で、夜の街がにぎやかで歌う場所が多く、これが彼女に有利に働いた。町のカフェの看板歌手となり、ミンデロのラジオに出演して、国内で知られるようになった。1950年代にはオランダとポルトガルにもファンがついたが、その成功を活かしきれなかった。1960年代にはラジオ用に何曲も録音し、シングルを二枚出した。音楽が男の領分と考えられていた国で、伝統的な性別の役割を信じる人々から妨げられ、人種の混合や社会階級の面でも非難された。そのいらだちを歌詞にしたこともあったが、外国の聴衆の多くは意味を理解しなかった。
三度離婚し、シングルマザーとして三人の子を産んだが、父親はそれぞれ別で、成人したのは二人だけだった。売れない音楽家の収入では子どもを養えず、アルコール依存や抑うつ、栄養不良にも苦しんだ。そのため1970年代に歌うことをやめ、母のもとに身を寄せた。ミンデロのファンが基金を募って彼女を支えるほどだった。彼女は、この約10年を「暗い年月」と呼んだ。
1985年、カーボベルデ女性機構から、女性の音楽を集めたアルバムのためにポルトガルへ行くよう頼まれ、音楽の世界に戻った。1987年に、モルナの歌手バナとともにアメリカを巡業し、バナのリスボンのレストランで歌っていたときに、フランスを拠点とするプロデューサーのジョゼ・ダ・シルヴァに見いだされた。パリに連れて行かれ、1988年に、彼の会社から最初のアルバム『裸足の歌姫』を出した。1990年に『ベリータの運命』を、1991年に『青い海』を出し、『青い海』はヒットした。1992年の第4作『ミス・ペルフマード』は何十万枚も売れ、フランスやポルトガルで多くの聴衆を得た。ブラジル、カナダ、アメリカ、アフリカや欧州の各地で公演を行うようになり、パリの劇場の公演はこの年に満員となった。
1995年にアメリカでの巡業に成功し、第5作を米国のレーベルから出して、国際的な称賛と初のグラミー賞のノミネートを受けた。「裸足の歌姫」や「モルナの女王」と称され、舞台では裸足で歌い、休憩中に煙草を吸い酒を飲む習慣でも知られた。2003年に『ヴォス・ドゥアモール』でグラミー賞の最優秀コンテンポラリー・ワールドミュージック・アルバム賞を受けた。2000年代後半に健康を損ない、2011年12月17日、呼吸不全と高血圧で没した。
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