伝記
アルベルト・フローリアーンは、1941年9月15日にハンガリー南部の村ヘルツェグサーントーで生まれたサッカー選手である。ユーゴスラビアとの国境に近い、首都ブダペストから約200キロ南の村で、4人きょうだいの3番目の子だった。1940年代に一家はブダペストに移り住んだ。12歳だった1953年に、強豪フェレンツヴァーロシュの下部組織でサッカーを始めた。当時はハンガリーのサッカーの黄金期で、「黄金のチーム」が1952年に五輪を制し、1954年のワールドカップでは決勝で惜しくも敗れていた。クラブの学校で6年を過ごし、1958年に17歳でトップチームにデビューした。
1959-60シーズンには26試合で27得点を挙げ、リーグ得点王となった。1959年6月28日、まだ17歳でハンガリー代表にデビューし、スウェーデン戦で2得点を決めて3-2の勝利に貢献した。海外へ去ったスターたちを失った国は、この若者に期待をかけた。1960年のローマ・オリンピックでは、予選の3試合で6得点を挙げながら、準決勝でデンマークに敗れたものの、3位決定戦でイタリアを破って銅メダルを得た。翌年のリーグでも得点王となった。1962年のワールドカップ・チリ大会では、イングランド戦で得点し、ブルガリア戦では3得点を挙げ、4得点で他の5人と並んで大会の得点王となった。ハンガリーは準々決勝でチェコスロバキアに敗れた。
1963年と1964年には、リーグで優勝した。この間に女優のバルショニ・イレーンと結婚し、結婚式でブダペストに渋滞が起きたという。1964年には欧州選手権の準々決勝でフランスに勝つ先制点を決め、本大会のスペインでは3位になった。1965年には、フェレンツヴァーロシュがユヴェントスを決勝で1-0で破り、インターシティーズ・フェアーズカップを制した。共産党政権は、プスカシュやコチシュがスペインに亡命したことを苦々しく思い、代表選手を厳しく管理した。そのため、ユヴェントスに移籍することは許されなかった。オーナーのジャンニ・アニェッリがブダペストまで来て獲得を試みたが、実現しなかった。
1966年のワールドカップ・イングランド大会では、リバプールでの試合で、前回王者のブラジルを3-1で破る立役者となった。三つの得点のすべてに絡み、ことに最後の得点では、中盤でボールを受けてブラジルの選手を3人かわし、ベーネにパスを送って、そのクロスをファルカシュが決めた。ペレが負傷で不在だったとはいえ、彼のプレーは観客に忘れがたい印象を与え、交代の際には拍手が起きた。ハンガリーは準々決勝でソ連に敗れた。ブラジルのフラメンゴなどが獲得を望み、2年契約を示したが、ハンガリー政府は拒んだ。1967年には、ハンガリー人として初めてバロンドールを受賞した。
1972年にはハンガリーカップを制し、欧州選手権にも出場した。代表では通算75試合に出て、30点以上を記録した。生涯をフェレンツヴァーロシュで過ごし、リーグ戦で351試合に出場して256得点、リーグ優勝は4回で、1974年に引退した。引退後は指導者としてリビアのクラブを率い、のちに母クラブで技術部長や名誉会長を務め、2007年にはクラブの競技場が彼の名を冠して改称された。息子も職業選手となった。2011年10月31日、心臓発作により没した。
同じ年に亡くなった人物
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