伝記
ギリジャー・プラサード・コイララは、1924年にインドのビハール州で生まれたネパールの政治家で、ネパール王国の首相を4度務め、のちに共和制の初代首相となった。亡命ネパール人クリシュナ・プラサード・コイララの子で、丘陵地帯のバラモンの家に生まれた。兄のマートリカ・プラサードとビシュエシュワル・プラサードも首相を務めた、ネパールで最も有力な政治家一族の出である。1947年にビラトナガルの黄麻工場のストライキを率いて政治に関わり、1948年にネパール労働組合会議を創設した。1952年にネパール会議派のモラン郡の支部長となり、同年、学校の校長をしていたスシュマと結婚し、1953年に娘スジャータが生まれた。スシュマは1967年、灯油こんろの爆発で亡くなった。
1960年、マヘンドラ国王のクーデターで逮捕され、1967年の釈放後はインドへ亡命した。1975年に亡命先でネパール会議派の代表幹事に就き、1991年までその職にあった。1979年に帰国し、1990年の民主化運動を指導して、パンチャーヤト制の廃止と複数政党制の導入に貢献した。30年ぶりの複数政党制による1991年の総選挙で当選し、ネパール会議派は下院の205議席のうち110議席を制した。党首のバッタライが落選したため、コイララがビレンドラ国王から首相に任命された。最初の任期中には、教育、メディア、保健を自由化する法律が通り、東部地区に大学や保健科学の研究所を設け、中国の援助でバラトプルにがん病院の建設も始めた。1994年11月、36人の与党議員が信任投票に反対して、解散総選挙に追い込まれ、選挙後は統一共産党主導の連立内閣が成立した。
タパ内閣の連立が崩壊すると首相を引き継ぎ、1998年12月25日まで会議派の少数内閣、その後は統一共産党などとの3党連立内閣を率いた。2000年には、議会選挙に勝利したバッタライ首相の辞任後に首相となった。造反議員のグループを率いて不信任をちらつかせ、バッタライを辞任に追い込んだのである。当時のネパールは、毛沢東主義派の反乱による内戦のさなかにあり、この任期中、コイララは汚職の疑惑に悩まされた。ネパール王族殺害事件のあとには、危機管理能力の欠如を批判された。2001年7月、内戦で初めて軍を動員したのち、首相を辞任した。
2006年の民主化運動で下院が回復すると、4月24日に7党連合の指導者たちから首相に選ばれた。回復した下院は国王の権力を奪う法律を可決し、国軍にシビリアン・コントロールをもたらした。暫定憲法の発布以降は、暫定的な元首となった。2007年4月には、7党連合と毛沢東主義派からなる新政府の首相に再び選ばれた。2008年4月の制憲議会選挙の後、5月28日に議会が共和制宣言を可決し、彼は今や大きな責任があると語った。会議派は彼を初代大統領にと望んだが、毛派などの反対にあい、酸素吸入が必要な健康状態も指摘され、側近のラーム・バラン・ヤーダブが当選した。2008年8月、後任に毛派のプラチャンダが決まり、辞任した。2010年3月20日、慢性閉塞性肺疾患のため、娘の家で死去し、翌日カトマンズのパシュパティナートで葬儀が行われた。
同じ年に亡くなった人物
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- ミープ・ヒース (2010年没)
- パトリシア・ニール (2010年没)
- Benedikt Sigurdsson Grondal (2010年没)
- ライオネル・コックス (2010年没)
同じ地域に関係する人物
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- ラナ・バハドゥル・シャハ (1806年没)