HISTORICAL PERSON · 1632年没

ジグムント3世 (ポーランド王)

ポーランド・リトアニア共和国の国王で、スウェーデン国王も兼ねた。1587年に自由選挙で選ばれ、母を通じてヤギェウォ朝の血を引いていた。

生涯
1632年没
死亡地
ポーランド共和国(マゾフシェ県 / ワルシャワ)
出生地
スウェーデン王国(グリプスホルム城)
出典
世界地図
ポーランド共和国(マゾフシェ県)

伝記

ジグムント3世は、1566年6月20日、スウェーデン国王ヨハン3世と、ポーランド国王ジグムント1世の娘である王妃カタジナの長男として生まれた。スウェーデン国王としてはシギスムンドと称される。政治的な思惑により幼くしてクラクフへ預けられ、カトリック改革の主導的存在だったイエズス会の手で教育を受けた。そのため、本国スウェーデンとヴァーサ家がルター派の国家であるにもかかわらず、熱烈なカトリック教徒となった。1587年、ポーランド国王ステファン・バートリの崩御を受け、シュラフタによる自由選挙で国王に選ばれた。母を通じてヤギェウォ朝の血を引いていたこと、リヴォニア戦争でスウェーデンと同盟していたことが理由で、バルト地域を共同で保有してモスクワ大公国の進出を阻む政略でもあった。

1592年に父が崩御すると、彼はポーランドを出国せずスウェーデン王位を継ぎ、叔父カール(後のカール9世)が摂政として国を治めた。だが君主と国家の宗教的一致を損なう彼とスウェーデンの関係は悪化した。スウェーデンでは1593年のウプサラ宗教会議でアウクスブルク信仰告白が決議され、ほとんどの教会がルター派の信条を受け入れていた。1594年にウプサラで戴冠したが、国王となるにはプロテスタント信仰を容認せざるを得なかった。しかし彼がポーランドへ帰国すると、1595年に共和国はプロテスタント信仰を禁じ、これはウプサラ宗教会議違反とみなされた。摂政カールは勢力を強めてスウェーデンをルター派国家に戻す改革を徹底し、1598年に彼は叔父の反乱軍と戦ったが敗れた。1599年にスウェーデン王位を廃され、ヴァーサ家はスウェーデン王家とポーランド王家に分裂した。1600年、摂政カールはジグムント派のカトリック貴族を多数粛清した。以後1629年のスウェーデン・ポーランド戦争終結まで、彼はスウェーデン王位を要求し続けた。

ポーランドでは1595年に共和国のカトリック化を進め、1596年にはブレスト合同を成立させて、東方典礼を守りつつ教皇の権威を認めるウクライナ東方カトリック教会を成立させた。同年にクラクフからワルシャワへ遷都したが、彼がワルシャワに居住したのは1611年以降である。1606年には絶対主義傾向に危機感を抱いた貴族の一派がゼブジドフスキの反乱を起こしたが、1609年に反乱者は恭順を示した。ロシアの大動乱にも関心を深め、1608年に息子ヴワディスワフを伴って介入し、スモレンスクを包囲して1611年に占領した。1610年にはモスクワを占領して一部のロシア貴族に熱狂的に迎えられたが、ロシアのカトリック化に固執したためロシア正教会の反発を受け、決裂した。1612年、モスクワに残された国王軍はロシア国民軍に敗れて撤退した。それでも戦争を続け、1618年にロシア西方などの割譲を得て、ツァーリ戴冠を断念した。

1621年、従弟のグスタフ2世アドルフがリガに侵攻してスウェーデン・ポーランド戦争が始まり、当初はスウェーデン軍に圧倒されたが、ハプスブルク家と同盟し、コニェツポルスキの活躍で持ち直した。1629年のアルトマルクの和議で戦争は終結し、彼はスウェーデン王位への請求を断念せざるを得なくなった。1592年に内オーストリア大公カール2世の娘アンナと結婚して5人の子をもうけ、1598年に死別した。1605年には彼女の妹コンスタンツェと再婚し、7人の子をもうけた。息子のヴワディスワフ4世とヤン2世カジミェシュは、のち国王となった。1632年4月30日に死去し、この年にグスタフ2世アドルフも世を去った。

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