伝記
王羲之は、303年に生まれ361年に没した中国東晋の政治家・書家である。字は逸少。右軍将軍となったことから王右軍とも呼ばれた。本貫は琅邪郡臨沂県で、魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。祖父は王正、父は王曠で、妻は郗鑒の娘の郗璿。七人の男子があり、末子の王献之も書に優れた。
成長の過程で癲癇の発作に見舞われ、吃音のために人前に出るのを嫌い、引込み思案になった時期もあったという。それでも東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから、一族期待の若者として嘱望された。有力者の郗鑒の目にとまってその女婿となり、征西将軍の庾亮には幕僚に請われて、その人格と識見を称えられた。朝廷の高官からも高く評価され、たびたび中央の要職に任じられたが、そのたびに固辞した。友人で揚州刺史の殷浩の懇願でようやく護軍将軍に就いたものの、まもなく地方転出を願い、右軍将軍・会稽内史となった。
会稽に赴くと、山水に恵まれた土地柄を気に入り、詩・酒・音楽にふける清談の風に染まっていった。ここを終焉の地と定め、隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士と交遊を楽しんだ。一方、一帯が飢饉に見舞われたときには、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いだ。永和10年(354年)、かねて不仲であった王述が、会稽内史を管轄する揚州刺史となった。羲之はその下に立つことを恥じ、会稽郡を揚州の機構から外すよう求めたが却下された。王述が会稽郡にさまざまな圧力をかけてくると、翌年、病気を理由に官を辞して隠遁した。その後も会稽にとどまり、人士と山水を巡り、仙道の修行に励む悠々自適の暮らしを送ったという。
書は7歳のころから衛夫人に学び、後漢の蔡邕や魏の鍾繇の書法を伝授され、各地を巡って古書を閲覧するなど寝食を忘れて精進したと伝わる。楷書・行書・草書・章草・飛白の5体を神品とする評もあり、行書の『蘭亭序』が最も名高い。ほかに『楽毅論』『十七帖』『黄庭経』『喪乱帖』などがある。祝版(祭文)を書いたとき、削った職人が、筆の墨が木に3分ほども染みこんでいるのに驚いたという故事があり、日本の書道が入木道とも呼ばれた由来とされる。
法帖にも多くの名品がある。『楽毅論』は永和4年(348年)の作で、戦国時代の燕の宰相楽毅を三国魏の夏侯玄が論じた文を写したものであり、羲之の小楷の第一に置かれる。日本では光明皇后の臨書が正倉院宝物として残る。『黄庭経』は永和12年(356年)の作で、老子の養生訓を書いた小楷であり、気韻が高い。『十七帖』は羲之の手紙29通を一巻にしたもので、蜀郡の太守周撫に宛てた手紙が多く、冒頭に「十七日」の句があることからこの名がある。古来、草書の神品とされてきた。『喪乱帖』と『孔侍中帖』には「延暦勅定」の印が押され、桓武天皇のもとにすでに存在していたことが分かる。書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と、宋の太宗が編纂させた『淳化閣帖』の影響が大きい。太宗は真行290紙・草書2000紙を集め、死に際して『蘭亭序』を昭陵に副葬させたといわれる。その後の戦乱を経て真筆はすべて失われたと考えられ、現在伝わるのは唐代以降の模写や拓本のみとされる。それでも「書聖」と称され、息子の王献之とあわせた二王は伝統派の基礎となった。その書は日本でも奈良時代から手本とされ、書道を習う者はまず王羲之を学べとさえ言われた。