伝記
理宗は、南宋の第5代皇帝である。1205年1月26日、太祖趙匡胤の次男趙徳昭の子孫の家に生まれた。名は最初は与莒といい、のちに貴誠、さらに昀と改められた。皇族の血を引いてはいたが、その家に政治上の地位はなく、皇位を継ぐ立場にはなかった。若いころは都から離れた紹興で目立たずに暮らし、弟には趙与芮がいた。皇太子趙詢が29歳で亡くなったあと、宰相の史弥遠は後継ぎにふさわしい者を探させた。雨の日に橋の下で雨宿りをしていた十代の少年が見いだされ、真の身分がわかると、史弥遠は彼を皇太子の候補として育てさせたという。理宗は生真面目で学問を好み、口数が少なく聡明な少年だったと伝えられる。
1224年に寧宗が亡くなると、史弥遠は楊太后と手を組み、皇太子だった趙竑を退けて理宗を皇帝に立てた。年号は宝慶、廟号は理宗である。史弥遠は理宗を玉座の間に入らせたうえで趙竑を呼び入れ、理宗の即位を宣言した。趙竑は怒って拝礼を拒み、宮殿の警護の長に強いられてようやく従い、その後遠ざけられた。のちに趙竑は反乱を起こしたが2週間で鎮圧され、楊太后の命で処刑された。即位の翌年、理宗は朱熹に徽国公の称号を贈った。治世の初期は史弥遠が実権を握り、理宗は政務に関心を示さなかった。
1230年の冬から翌年の秋にかけて、モンゴル軍は南宋の領内を押し通り、蜀口三関を中心とする地域で宋軍と戦った。1233年には僧の無準師範が召され、理宗は禅と仏法について語り合った。同年に楊太后と史弥遠が亡くなると、理宗は親政を始めた。朱子学に傾倒していた理宗は、真徳秀ら学者を登用して政治の改革を図った。しかし理想に偏った改革は、モンゴルの侵攻という国家の危機に対応できず、失敗に終わった。
1234年にはモンゴル帝国のオゴデイと同盟して金を滅ぼした。金の哀宗は、モンゴルが金を倒せば次は宋を攻めると警告して講和を求めていたが、理宗はこれを無視したと伝えられる。宋軍は同年7月に洛陽と開封を取り戻したが、9月にモンゴルが反撃して洛陽を包囲した。宋軍は食糧が足りず、黄河の水をモンゴルが市内に引き入れて、宋軍に多くの死者が出た。1238年には長男の趙維が生まれたが、生後2か月で亡くなった。やがて両国は戦後処理や領土の分割をめぐって対立するようになり、宋はモンゴルとの抗争に苦しんだ。しかし1259年にモンケが亡くなるなどの事情もあって、南宋軍は結果としてモンゴル軍を退けることに成功した。
改革の失敗のあと、理宗は政治への関心を失い、酒や遊びにふけるようになった。晩年には妓楼に通い、宮中に妓女を招いたとも伝えられ、臣下は強く反対した。朝廷は閻氏、賈氏の外戚や、宦官の董宋臣、盧允升らに左右され、政治の腐敗と派閥の対立が生じた。寵妃の弟賈似道が専横をふるい、理宗は実権を失った。宮殿の造営を進めて、国庫の破綻も招いた。1264年11月16日、理宗は60歳で亡くなった。跡継ぎがなく、弟の栄王趙与芮の子で養子に迎えていた度宗が即位した。廟号の「理」は、理宗が朱子学を重んじたことによる。40年にわたる治世は宋の苦境をほとんど改善せず、多くの批評家は、のちの宋の滅亡を理宗の指導力のせいとした。
同じ年に亡くなった人物
- トレニオタ (1264年没)
- キプロス王女イザベラ (1264年)
- ステファン・ヴラディスラヴ (セルビア王) (1264年没)
- アンドレイ2世 (1264年)
- ウルバヌス4世 (ローマ教皇) (1264年没)