伝記
ラウル・リカルド・アルフォンシンは、1927年3月12日にブエノスアイレスの南約123キロにあるチャスコムスの町で生まれたアルゼンチンの弁護士・政治家である。両親は商店を営んでおり、父はガリシア系とドイツ系の血を引き、母はウェールズからの移民の娘とフォークランド諸島出身の女性の間に生まれた。小学校を終えるとサン・マルティン将軍士官学校に入った。父は軍を好まなかったが、私立校並みの質で学費が安いと考えたためで、本人も軍を好まなかったものの、この教育は軍人の考え方を理解する助けになったという。五年で少尉として卒業したが軍人の道には進まず、ラ・プラタ国立大学で法律を学び始め、ブエノスアイレス大学で修了した。弁護士としては成功せず、職場を空けがちで借金も多かったと伝えられる。1949年の仮装舞踏会でマリア・ロレンサ・バレネチェと出会って結婚し、六人の息子をもうけたが、そのうち政治家となったのは三男のリカルドだけである。
1946年に急進市民同盟(急進党)に入り、1951年にチャスコムスの党委員会の議長に任命され、1954年には市議会議員に選ばれた。ペロン政権期とそれを倒した自由革命の際には、いずれも短期間拘束されている。党が二つに分裂すると、分裂には反対だったが、リカルド・バルビンらの党派に従った。1958年にブエノスアイレス州議会議員に当選し、のちには国会の下院議員も務めた。軍政期には、強制失踪の被害者の釈放を求めて人身保護令状を何度も請求し、フォークランド紛争でも双方の行動に反対した。バルビンの死後に党首となり、1983年の選挙で急進党の候補として大統領に当選した。
任期は1983年12月10日から1989年7月8日までである。就任後は軍政が定めた自己恩赦法を撤回し、失踪者全国委員会を設けて軍の犯罪を調べさせた。1985年12月にはビデラ将軍ら軍人五名に有罪判決が下り、ラテンアメリカ史上初めて文民が軍人を裁いた。これに反発した軍の反乱が1987年4月、1988年1月と11月の三度起きたが、結果として軍を文民統制下に置き、大規模な軍縮を実現した。外交では、1984年11月にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の仲介でピノチェト政権のチリと平和条約を結び、ビーグル水道の三島のチリ領有を認める譲歩でパタゴニアをめぐる対立を解決した。1986年7月にはブラジルとの統合議定書に調印し、長年の敵対に終止符を打った。この融和路線は、のちのメルコスール形成につながった。
経済面では、1985年5月に新通貨アウストラルを導入するアウストラル計画でインフレ抑制を試み、一定の成果を挙げた。1986年にメキシコで開かれたワールドカップでは、ディエゴ・マラドーナの活躍でアルゼンチンが二度目の優勝を果たし、軍政の負の遺産に苦しむ国民に大きな希望を与えた。しかし計画はやがて無理が露呈した。1989年には再びハイパーインフレーションとなり、暴動も起きたため、任期を五か月残して退陣し、党は選挙でペロン派のカルロス・メネムに敗れた。退任後も党首として活動し、メネムとのオリボス協定で1994年の憲法改正の条件をまとめた。2009年3月31日、肺癌のため82歳で死去し、盛大な国葬が営まれた。
同じ年に亡くなった人物
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- ジャン・ジャド (2009年没)
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- ジョアン・ヴィエイラ (2009年没)
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- オスカル・アルフレード・ガルベス (1989年没)
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