伝記
ジョアン・ベルナルド・「ニノ」・ヴィエイラは、1939年4月27日に当時ポルトガル領ギニアだったビサウで生まれたギニアビサウの政治家・軍人である。もともと電気技師としての訓練を受けていたが、1960年にアミルカル・カブラルが結成したギニア・カーボベルデ独立アフリカ党に入党し、まもなくポルトガルの植民地支配に抵抗する独立戦争の重要なゲリラ指導者となった。戦争が激しくなるにつれて軍指揮官としての能力を発揮し、速やかに地位を上げた。同志たちからは「ニノ」と呼ばれ、この愛称は戦争を通じて通り名として定着した。のちに殺害された軍指導者オズヴァルド・ヴィエイラの従兄弟でもある。民族はパペル人で、国の人口の約5パーセントを占めるにすぎず、多数派のバランタ人が占める軍の将校たちとは、生涯を通じて緊張した関係にあったとされる。
1972年に党の支配地域で地方評議会選挙が行われ、のちの国民議会の母体が生まれると、ヴィエイラは国民議会の議長に指名された。1974年にポルトガルで政変が起きると、新政府は党との交渉に応じ、同年9月10日にギニアビサウは独立した。初代大統領にはルイス・カブラルが就き、ヴィエイラは1978年9月28日に首相に任命された。1980年には経済が著しく悪化して政府への不満が広がり、同年11月14日、ヴィエイラは無血の軍事クーデターでカブラル政権を倒した。憲法は停止され、ヴィエイラを議長とする9人の軍人による革命評議会が置かれた。カーボベルデの党組織はこれを機に分離して別の政党となった。
その後も軍への依存は深く、1982年と1983年にはクーデターの動きや企てが相次いだ。1984年に憲法が改正されて革命評議会は廃され、文民政治に戻ったとされるが、大統領の役割はむしろ集権化されたとも伝えられる。1986年6月には、ヴィエイラに対するクーデター未遂に絡んで、副大統領を含むバランタ人の政治家や将軍ら少なくとも28人が処刑されたとされる。1990年代には複数政党制へ移行し、1991年に政党の結成が解禁され、1994年に大統領選挙が行われた。第1回投票で46.20パーセントを得て過半数に届かなかったが、8月の決選投票では52.02パーセントで元哲学講師のクンバ・ヤラを破り、9月29日に初の民主的選挙で選ばれた大統領となった。国際選挙監視団は二度の投票とも公正だったと評価した。ヴィエイラは在任中、自らをギニアビサウへの「神の贈り物」と称したという。
しかし1998年のクーデター未遂事件の後、ヴィエイラ派と反政府指導者アンスマネ・マネ派の軍との間で内戦が起こり、1999年5月7日に反政府軍がその政権を退陣させた。ヴィエイラはポルトガル大使館に避難し、7月にポルトガルへ亡命した。2005年4月にビサウへ帰還し、最高裁判所から立候補資格を認められて大統領選に出馬し、7月24日の決選投票で52.35パーセントを得て、10月1日に大統領へ復帰した。2008年11月には反乱軍に官邸を襲撃されたが撃退した。2009年3月2日、前日に爆破で死亡した軍参謀長ナワイを支持する一派が報復したとの見方があるなか、ヴィエイラは大統領宮殿を襲撃した国軍兵士に殺害された。
同じ年に亡くなった人物
- アルツロ・ガッティ (2009年没)
- Aldo Valentini (2009年没)
- イデア・ヴィラリーニョ (2009年没)
- 高田一美 (2009年没)
- フィリップ・ホセ・ファーマー (2009年没)
同じ地域に関係する人物
- カルメン・ペレイラ (2016年没)
- クンバ・ヤラ (2014年没)
- ヴェリッシモ・コレイア・セアブラ (2004年没)
- フランシスコ・メンデス (1978年没)
- カルロス・コレイア (2021年没)