伝記
長沼健(ながぬま けん)は、1930年9月5日に広島市で生まれ、2008年6月2日に没した元サッカー選手であり、元日本代表監督である。1994年から4年間、第8代の日本サッカー協会会長を務めた。
実家は広島の老舗の電気工事業、長沼電業社である。祖父の鷺蔵は広島藩士で、戊辰戦争の際に結成された「神機隊」の参謀を務め、のちに実業家となった。父と実兄もサッカー選手だった。進学した旧制広島高等師範学校附属小学校には野球部がなく、小学校の時から自然にサッカーを始めた。1945年8月6日の原爆投下の日、15歳の長沼は、広島市中心部の学校での防空当番を終えて、疎開先へ自転車で帰る途中、家に着く直前に被爆した。山陰に入ったところで一命を取りとめ、30分遅ければ爆心の直下にいたという。1週間後に市内に入り、数多くの死体を目にした。多くの知人や級友を亡くし、自らも亡くなるまで白血球過多に苦しみ、被爆者手帳を持っていた。終戦後は、焼け野原でグラウンドを整え、1個だけのボールを縫いながらサッカーに打ち込んだ。1947年に復活した全国中等学校選手権で、広島高等師範附属中学のエースとして、チームを戦後初の優勝に導いた。のちに「アジアの黒豹」と呼ばれた木村現、樽谷恵三と組んだ3人の攻撃は、学生の水準では止められず、4試合で21得点を挙げ、決勝の7対1は大会最多得点差の記録として残る。同じ初戦で、のち生涯の盟友となる岡野俊一郎と対戦した。
1950年から1952年まで、関西学院大学で関西学生リーグ3連覇を果たし、1950年には全関学として全日本選手権で優勝した。1953年に中央大学の3年に編入して、4年で主将を務めた。この年には、西ドイツで開かれた国際学生週間に日本学生代表として参加し、約2か月にわたってヨーロッパを転戦した。1954年には、日本が初めてワールドカップ予選に参加した大会の代表に選ばれ、3月7日の韓国戦で、予選における日本代表の第1号ゴールを決めた。これは日韓戦の第1戦の第1号でもあった。1955年に古河電工に入団して、すぐに関東実業団リーグ2部優勝と1部昇格に導き、1956年にメルボルンオリンピックの日本代表に選ばれたが、体調を崩して試合に出られなかった。1959年に古河電工のプレイングマネージャーとなり、1960年に実業団チームとして初めて天皇杯を制覇した。1961年には史上初の3冠を達成し、第1回の日本年間最優秀選手賞を受けた。彼を慕って、のちの重要人物が古河に集まり、「長沼一家」と呼ばれた。
1962年、日本サッカー協会会長の野津謙の英断で、33歳で日本代表監督に抜擢された。コーチは32歳の岡野俊一郎で、デットマール・クラマーが技術と戦術を担い、長沼が選手をまとめた。対話と説得で選手を伸ばすことを信条としていたという。1964年の東京オリンピックでアルゼンチンに勝って日本に空前のサッカーブームを起こし、1968年のメキシコオリンピックでは銅メダルを獲得した。1965年に発足した日本サッカーリーグの創設にも岡野らと尽力し、白黒のボールの導入も強行した。位階は正五位である。
同じ年に亡くなった人物
- ヌーハック・プームサワン (2008年没)
- マリーザ・サンニア (2008年没)
- ヨーッラック・サラックジャイ (2008年没)
- アルバート・ホフマン (化学者) (2008年没)
- フォレスト・J・アッカーマン (2008年没)
同じ地域に関係する人物
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- 北条氏政 (1590年没)
- 長宗我部元親 (1599年没)
- 井上健 (サッカー選手) (1992年没)
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