伝記
ヌルハチは、女真族の愛新覚羅氏の出身で、ヘトゥアラに生まれ、のちに後金の初代ハン、清の初代皇帝とされた人物である。生まれた頃の女真は建州女真五部・海西女真四部・野人女真四部に分かれて激しく抗争しており、明は朝貢の権利を分散させることで、飛びぬけて強い部族が出ないようにしていた。ヌルハチは生まれつき聡明で、力が強く武術を好み、よく働いたので両親に可愛がられた。9歳のときに母が病死し、父タクシが迎えた継母とは折り合いが悪く、14歳で家出して、母方の祖父とされる王杲のもとに身を寄せた。王杲は文武に秀で、武芸に優れた孫を可愛がった。1574年に王杲は明と衝突を重ねた末に挙兵して惨敗し、北京に送られて処刑されたが、このとき捕らわれたヌルハチはどうにか逃げ切り、故郷に戻った。ハハナ・ジャチンと結婚するものの、父の後妻に惑わされた父に冷遇されて再び家を出て、人参や薬草を採って細々と暮らし、やがて武将を志して、遼東総兵の李成梁の部下になった。
1583年2月、李成梁率いる明軍が、建州右衛のグレ城主アタイを二昼夜にわたる火攻めで討った。このとき、ヌルハチの祖父ギョチャンガと父タクシが「誤殺」されたため、ヌルハチは明への恨みを募らせた。ヌルハチが抗議すると、明側は勅書や馬などを与えて幕引きを図ったが、手引きをしたニカン・ワイランの引き渡しを求めると、明はニカンに城を与えて主人にしてやるとやりこめた。同部の女真はニカンに従い、ヌルハチは大伯父らにも排除を謀られて孤立した。それでも、ニカンと反目していたサルフ城主ノミナらと盟約を結び、父の遺産のわずか13着の鎧と少数の兵を頼りに、25歳で国取りを始めた。
ヌルハチは100人足らずの兵でトゥルン城を攻めたがニカンに逃げられ、ノミナの内通を悟ると、装備を借り受けてサルフ城を奪い、ノミナを殺した。その後もジョオギャ城のリダイやマルドゥン山砦のサムジャンらを討ち、ジャイフィヤンでは、十倍規模の敵兵に対し、弟ムルハチを含む四人で退けたという。1586年にはオルホン城を制し、ニカンの身柄を得て首を刎ね、祖父の仇を討った。1587年に居城フェ・アラを築いて法を定め、ハダのフルガンの娘を娶り、有力な首長が続々と帰順して、明との交易も栄えて国は豊かになった。
建州女真を統一すると、次の目標は海西女真であった。1589年にイェヘのナリムブルが盟主となり、帰順を求めたが、ヌルハチは無視して対立を深めた。1593年6月にイェヘのナリムブルがハダ、ウラ、ホイファと連合して攻めてきたが、ヌルハチは大敗させた。同年9月には9部連合3万の大軍がヌルハチを攻撃した(古勒山の戦い)。ヌルハチはグレ山の山陰に精鋭を伏せ、自らはわずか100騎で奇襲して逃げ、追ってきた連合軍を待ち伏せで包囲し、大敗させた。この戦いで海西女真と建州女真の勢力が逆転し、明はヌルハチに竜虎将軍の官職を授けた。1599年にヌルハチはハダを攻めて支配下に置いた。首長メンゲブルは捕虜となり、のちに死刑になった。さらに1607年にホイファも制圧した。これを受けて明は危機感を抱き、イェヘ部を後押しして対抗しようとした。清朝成立以前の満洲語の史料では、聡明を意味する語を冠したハンの称号で呼ばれている。在位は1616年から1626年で、1626年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- エリサベト・ア・ダンマーク (1573-1626) (1626年没)
- ピエトロ・カタルディ (1626年没)
- フェルディナンド・ゴンザーガ (1626年)
- Taleb Amoli (1626年没)
- ウィリアム・ロウリー (1626年没)