伝記
公孫度(?-204年)は、中国後漢末期の群雄の一人である。字は升済、幼名は豹。幽州遼東郡襄平県の人で、父は公孫延、子に公孫康・公孫恭があり、孫に公孫淵・公孫晃がいる。150年生まれとする記述もある。父の延は玄菟太守の公孫琙に官吏として仕えていた。公孫琙は夭逝した自分の子と同じ「豹」という名であることから公孫度を可愛がり、その援助のもとで学問を修めさせたという。妻を迎える世話をし、有道の士として推挙したともいわれる。建寧2年(169年)に霊帝が有道の士を推挙するよう詔を下すと、公孫度は謝弼や陳敦とともに答え、いずれも郎中に任ぜられた。その後は尚書郎から冀州刺史に転じたが、謡言を理由に職を追われた。
中平6年(189年)、董卓の中郎将となった同郡出身の徐栄の推挙により、遼東太守に任ぜられた。しかし地元には、公孫度の出自を軽んじる名族がいくつもあった。そこで公孫度は先手を打ってこれらの家を罪に当てはめ、百余家を滅ぼしたとされる。名の知れた人物を理由なく殺して、郡の人々を恐れさせたとも伝えられる。また、子の公孫康が五長の身で都尉の公孫昭に徴発されて労役に就かされたことに怒り、公孫昭を捕らえて殺したという話もある。
初平元年(190年)、中原の混乱を知った公孫度は、側近の柳毅と陽儀に「漢の命運は尽きようとしている。今まさに諸卿らと王位を狙うべきだ」と語り、独立の意志を明らかにした。さらに、予言書に「孫登が天子になる」とあるが、自分の姓は公孫、字は升済であり、升とは登のことだと述べた。遼東郡を遼東・遼西・中遼の三つに分けて自らの配下を太守に据え、海を隔てた青州東莱郡へ軍を送って攻略し、営州刺史を置いた。公孫模と張敝を朝鮮半島の南方へ送り、さらに土地を得ようとしたともいわれる。自らは遼東侯・平州牧を名乗り、父の公孫延に建義侯の称号を追贈し、漢の二祖である劉邦と劉秀の霊廟も建てた。
公孫度は襄平の名門を滅ぼして支配を固める一方、東では高句麗、西では烏桓を討って功を挙げた。董卓の死後に実権を握った曹操は、この功を賞して武威将軍・永寧郷侯の地位を与えた。だが公孫度は遼東の主を称していたので、この地位に不満で、朝廷から贈られた印綬を武器庫にしまいこんだという。曹操が派遣した楽浪太守の涼茂も、公孫度に拘束されて赴任できないまま召還された。『隋書』によれば、高句麗の東明王の子孫である仇台に娘を嫁がせている。
公孫度は建安9年(204年)に死去し、子の公孫康が遼東侯・平州牧の地位を継いだ。遼東を治めた期間は15年とされる。後継の公孫康は北東の地を治め続け、のちに楽浪郡の南半分を分けて帯方郡が置かれたと伝えられる。宮城谷昌光の小説『三国志外伝』には、公孫度を題材とした作品がある。
同じ年に亡くなった人物
該当人物はまだありません。
同じ地域に関係する人物
- 張作霖 (1928年没)
- ロマン・コンドラチェンコ (1904年没)
- 雷鋒 (1962年没)
- 申采浩 (1936年没)
- 安重根 (1910年没)