伝記
オスカー・エマニュエル・ピーターソンは、1925年8月15日、カナダのケベック州モントリオールで生まれたジャズ・ピアニストである。両親は西インド諸島のセントクリストファー・ネイビスやイギリス領ヴァージン諸島からの移民で、母キャスリーンは家事の仕事をしていた。父ダニエルは鉄道の赤帽として働き、独学でオルガンやトランペット、ピアノを弾いたアマチュアの音楽家だった。一家は、黒人が多く住むモントリオールのリトル・バーガンディの地区に暮らし、ピーターソンはここでジャズの文化に触れた。5歳でトランペットとピアノを習い始めたが、7歳で結核にかかり、トランペットを吹けなくなったため、ピアノに専念するようになった。父が最初の先生の一人で、姉のデイジーがクラシックのピアノを教えた。基礎は音階と練習曲の根気強い反復にあった。
子どものころには、ハンガリー生まれのピアニスト、ポール・ド・マルキーに師事して、クラシックを土台に鍛えられたが、伝統的なジャズやブギウギにも魅了され、ラグタイムの曲もいくつも覚えた。「ブギウギの褐色の爆撃機」と呼ばれた。9歳でプロの音楽家を感心させるほど腕前を上げ、長いあいだ毎日4時間から6時間練習したという。14歳になった1940年に、カナダ放送協会の全国音楽コンクールで優勝し、高校を中退してプロとなった。ラジオの週間番組に出演し、ホテルや音楽堂で演奏して、10代のころにはジョニー・ホームズ楽団の一員でもあった。1945年から1949年には、トリオで録音した。アート・テイタムやナット・キング・コールらの影響を受けたとされる。
ノーマン・グランツは、モントリオールの空港へタクシーで向かう途中、ラジオから流れる地元のクラブの演奏を耳にし、その演奏に感心して、運転手にクラブへ行くよう頼んだという。1949年、グランツの手でニューヨークのカーネギー・ホールで紹介され、アメリカに進出した。グランツは、人種隔離が残る1950年代から1960年代の南部で、黒人のジャズ奏者のために立ち上がった人で、ピーターソンはその支えに感謝していた。1950年にはベーシストのレイ・ブラウンとデュオを組み、その後、ギターが加わるトリオを結成した。1953年にギターのハーブ・エリスが加わった顔ぶれは、1958年まで続き、本人も、最も刺激的で実り多い編成だったと考えた。エリスが去ったのち、ドラムスのエド・シグペンを迎えた。ルイ・アームストロング、エラ・フィッツジェラルド、ジョー・パス、カウント・ベイシー、スタン・ゲッツら多くの音楽家と共演した。1959年にグランツが設立したヴァーヴ・レコードに籍を置き、1965年から1971年にはドイツのレーベルでもモダンな作風に挑んだ。1973年にグランツがパブロ・レコードを設立すると、ここでも名盤を残した。
200点以上の録音を発表し、1975年から1997年までにグラミー賞を8回受賞した。デューク・エリントンは彼を「鍵盤のマハラジャ」と呼び、友人たちには「O・P」と呼ばれた。1993年に脳梗塞で倒れ、歩けなくなったが、リハビリを重ね、左手はまだ不自由なまま再びピアノを弾けるようになった。1999年に高松宮殿下記念世界文化賞を受け、受賞式で左手が不自由ながら演奏を披露した。2005年8月15日、80歳の誕生日にトロントで祝賀会が開かれた。2006年まで演奏を続け、2007年12月23日の夜、腎不全のため、トロント郊外のミシサガの自宅で死去した。82歳であった。
同じ年に亡くなった人物
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