伝記
カールハインツ・シュトックハウゼンは、1928年8月22日にケルン郊外の村で生まれたドイツの現代音楽の作曲家である。父ジーモンは小学校の教師、母ゲルトルートは農家の出だった。母は1932年に精神を病んで入院し、その数か月後には、弟のヘルマン=ヨーゼフがわずか1歳で亡くなるなど、身内の不幸が続いた。1935年に引っ越した先のアルテンベルクで教会に魅了され、1938年にはその教会の聖餐会に加わるなど、カトリックの信仰を強めた。同年、父は別の女性と再婚したが、継母との関係は冷え切っていた。1941年に母が亡くなり、翌年からは教員養成学校の寄宿生としてクサンテンで暮らした。1944年には同級生の多くが徴兵されたが、他より若く入学していたため免れ、代わりに野戦病院で働いた。父は1945年4月に東部戦線に出征して戦死した。
戦災孤児となった彼は、農場の手伝いやダンスのピアノ伴奏、ピアニストの仕事で食いつないだ。1947年4月にケルン音楽大学を受け、音楽教育コースは不合格だったがピアノ・コースに合格した。駐車場の管理人や警備員などの仕事をしながら学び、翌1948年には音楽教育コースにも合格した。1951年にダルムシュタット夏季現代音楽講習会に初めて参加し、シェーンベルクの作品に失望する一方、オリヴィエ・メシアンの「音価と強度のエチュード」に強い衝撃を受けた。同じ講習会で知り合ったベルギーの作曲家カレル・フイヴェールツから、戦時中は「退廃音楽」として忘れられた新ウィーン楽派の作曲法を教わった。
メシアンの衝撃からフランスに移り、パリ国立高等音楽院を受験したが、ダリウス・ミヨーのクラスの外国人枠には、同じく受験した別宮貞雄が合格し、不合格となった。それでもメシアンの楽曲分析クラスの聴講は認められ、1年ほど学んだ。その後、「群の音楽」や「モメント形式」といった新しい概念を考案し、世界で初めての電子音楽も手がけた。「少年の歌」「グルッペン」「コンタクテ」「モメンテ」などの代表作を生み、戦後の前衛音楽の時代に、フランスのピエール・ブーレーズや、イタリアのルイジ・ノーノらと並び、ミュージック・セリエルを主導した。ダルムシュタットでは20代のうちから講師を務めた。
1960年代後半以降は、確定的な記譜から離れ、自作を出発点にそれを変容させていく「プロツェッシオーン」や、短波ラジオが受信した音を変容させる「クルツヴェレン」などを作曲した。演奏の方向が文章の形で示される「直観音楽」も提唱した。1966年には来日し、NHKの電子音楽スタジオで「テレムジーク」などを作曲している。1970年代には「フォルメル技法」を掲げて、再び確定的な記譜に戻った。1975年には、複雑な記譜による楽譜の制作が難しかったことから、自作を出す出版社を自ら設立した。
1977年からは、1週間の七つの曜日を題とする七つのオペラからなる連作「光」の作曲に取りかかり、約26年を費やして、2003年に最終作「光から日曜日」を完成させた。1991年にはケルン郊外のキュルテンに土地を買い、約4年かけて望みどおりの家を建て、以後はその家で過ごした。1998年から毎年キュルテンで講習会を開いて、後進を指導した。2004年からは、1日の24時間を音楽で表す24曲の連作「クラング」に取り組んだが、全曲の完成を前にして、2007年12月5日、キュルテンの自宅で亡くなった。墓は1997年に自らデザインしたもので、大きな金属の円盤に「光から水曜日」の一場面の楽譜が刻まれている。
同じ年に亡くなった人物
- Hans Sturm (2007年没)
- Edgardo Gonzalez (2007年没)
- エマ・ティルマン (2007年没)
- センベーヌ・ウスマン (2007年没)
- ブルーノ・ルフォ (2007年没)
同じ地域に関係する人物
- ペーター・キュルテン (1932年没)
- ルドルフ・クラウジウス (1888年没)
- ヴァルター・クルピンスキー (2000年没)
- ゲルハルト (ベルク伯) (1360年没)
- ヴィルヘルム1世 (ベルク公) (1408年没)