伝記
イブラヒム・ルゴヴァは、1944年12月2日に生まれ、2006年1月21日に亡くなったコソボの政治家、文学研究者、作家である。アルバニア人主導のコソボ政府の大統領を1992年から務め、国際連合コソボ暫定行政ミッションの統治下では、2002年から亡くなるまで同国の大統領を務めた。
イストク近郊で、アルバニア人のケルメンディ族の家系に生まれた。当時のコソボは、イタリアの支配、次いでドイツの支配を経て、1944年11月の末ごろ、ブルガリア軍とユーゴスラビアのパルチザンによって解放され、ユーゴスラビアの支配が再び確立された時期にあたる。父ウケと祖父ルストは、翌年1月にユーゴスラビアの共産主義者によって即決で処刑された。イストクで小学校を、ペヤで高校を終えて1967年に卒業した。新設のプリシュティナ大学の哲学部アルバニア語学科に学び、1968年のコソボでの抗議行動にも加わり、1971年に卒業した。その後は文学理論を専攻する研究生となり、1976年から2年間はパリの高等研究実習院でロラン・バルトに師事した。1984年に博士号を取得した。学生のころには、アルバニア人の公民権の運動に参加し、ユーゴスラビア共産主義者同盟の一員にもなった。1970年代には学生新聞や雑誌の編集などでジャーナリストとして活動し、プリシュティナのアルバニア研究所では研究員を務めた。文学理論や批評、歴史に関する著作と自作の詩を出版し、1988年にはコソボ作家協会の会長に選ばれた。妻はファナで、3人の子がいた。
1989年、セルビアのミロシェヴィッチ大統領の一方的な措置により、コソボの自治は1974年以前の状態に戻された。アルバニア人約13万人が職を追われ、警察からはアルバニア人がほとんど排除され、不当な暴行や拷問、殺害の報告が相次いだ。ルゴヴァは、この決定に反対する「コソボ知識人215人の訴え」の署名者の一人となり、憲法の改正を求めたため共産党を除名された。同年12月、新しく結成されたコソボ民主連盟の党首となり、自治の無効化に反対した。この党には数か月で70万人が加わり、成人のコソボのアルバニア人のほぼ全員にあたる規模となった。党は平和的な手段による独立を主張し、教育や医療などの基本的な公共サービスをアルバニア人に提供する影の政府をつくり、事実上の並行国家を築いた。
アルバニア人は、ミロシェヴィッチ政権を正当化することになるとして、ユーゴスラビアとセルビアの選挙をボイコットした。1992年5月に独立した選挙が行われ、ルゴヴァは、国際的には承認されなかったコソボ共和国の初めての大統領に選ばれた。コソボ紛争では、穏健派の指導者として行動し、非暴力の抵抗とアメリカやヨーロッパの支持を求める運動を進めたため、「バルカンのガンジー」とも呼ばれた。1999年5月5日から7月30日まではイタリアに逃れた。コソボでは「国父」と呼ばれる。2006年1月21日、肺癌のため現職のままプリシュティナで61歳で亡くなった。セルビアとの間で、コソボの地位をめぐる交渉が本格化する直前のことだった。死後に「コソボの英雄」の称号を贈られた。
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