伝記
シド・バレット、本名ロジャー・キース・バレットは、1946年1月6日にケンブリッジの中流階級の家庭に生まれたイギリスのミュージシャンである。教育熱心で音楽に理解のある両親のもとで幸福な幼少期を送った。「シド」というあだ名は、13歳のころに地元のジャズバンドで演奏していたミュージシャンの名にちなむといわれる。別の説では、学生時代に入り浸っていたパブの名物ベーシスト、シド・バレットに由来し、常連客が同じ姓の彼もシドと呼ぶようになったため、区別のために綴りを変えたという。のちにピンク・フロイドで共に活動するロジャー・ウォーターズとは、子どもの頃からの友人だった。
画家を志して、1964年にロンドン芸術大学のキャンバーウェル・カレッジ・オブ・アーツに入った。並行して音楽にも強い関心を持ち、ウォーターズらとピンク・フロイドの母体になるバンドを結成し、作詞・作曲、ギター、ヴォーカルを担当して牽引した。1965年ごろからロンドンのアンダーグラウンドで名を広め、多くの芸術家と親交を持ったが、このころから過剰なドラッグ摂取の傾向があった。1967年にバンドがメジャー・デビューすると、端正な容姿と斬新な音楽性でバンドを成功に導いた。しかし、成功にともなうストレスとLSDの中毒で精神のバランスを崩し、録音や公演の最中にも奇行を繰り返すようになって、1968年にバンドを脱退した。共感覚の持ち主であったともいわれ、それが独特の感性を持つ作品にあらわれたとされる。
1970年、ピンク・フロイドのメンバーやソフト・マシーンの協力を得てソロ・アルバム『帽子が笑う…不気味に』を発表し、全英のトップ40に入るヒットとなった。EMIはすぐに2作目を指示し、同年のうちに『その名はバレット』が出た。どちらも正常な精神状態で録音されたものではなく、ポップで眩惑的な音に相反する危うい雰囲気を漂わせている。彼は最初のサイケデリック・フォークの音楽家と見なされている。最後に人前に出たのは、1972年に新たに結成したバンド、スターズでの数回の公演であり、まもなく辞めて、恋人とともに故郷のケンブリッジに戻った。1970年代の半ばからは実家に引きこもり、かつての作品の印税と生活援助で隠居生活を送った。1975年にピンク・フロイドが『炎』を録音している最中、何の前触れもなくスタジオに現れたが、体重が増え、髪も眉も剃っていたため、最初は誰も彼だと気づかなかったという。座ったまま黙って聴いていた。1996年にはピンク・フロイドの一員としてロックの殿堂入りを果たしたが、式典には出席しなかった。
2006年7月7日、ケンブリッジの自宅で膵臓癌のため60歳で死去した。死後に妹は、彼の精神病は過度に強調されていると語り、美術史の研究書の執筆に打ち込んでいたことや、地元の人々と友好的だったことも明かした。デヴィッド・ボウイは彼の影響を公言して「シー・エミリー・プレイ」を取り上げ、「60年代に観た彼のギグは絶対に忘れない」と悼む声明を出した。活動期間は5年足らずだが、ジミ・ヘンドリックスやマーク・ボラン、ポール・ウェラーら、彼に影響を受けたと語る音楽家は多い。ピンク・フロイドのほかのメンバーにとっても、天才的な才能で自分たちを導きながら、精神を病んで去った彼の存在は、心に重く残り続けたといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- シルヴァ・カプティキャン (2006年没)
- ジェーン・ワイアット (2006年没)
- マクトゥーム・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム (2006年没)
- 橋本龍太郎 (2006年没)
- シャーリー・ウォーカー (2006年没)
同じ地域に関係する人物
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- クリストファー・ホグウッド (2014年没)
- ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン (1951年没)
- カーデール・バビントン (1895年没)
- G・I・テイラー (1975年没)