HISTORICAL PERSON · 2006年没

リゲティ・ジェルジュ

ハンガリー系オーストリア人の現代音楽作曲家。実験的な作品を多く残した。キューブリック監督が映画『2001年宇宙の旅』などで使用し、広く知られた。

生涯
2006年没
死亡地
オーストリア共和国(ウィーン)
出生地
ルーマニア(トゥルナヴェニ)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ウィーン)

伝記

リゲティ・ジェルジュ・シャーンドルは、1923年5月28日に、当時ルーマニア王国領だったトランシルヴァニア中南部のディチェーセントマールトンで、ユダヤ系ハンガリー人の家に生まれた現代音楽の作曲家で、のちにオーストリア国籍を得た。本人の語るところでは、少年期には有機化学と数学に熱中していた。1941年にコロジュヴァールの大学に合格したが、当時のハンガリーはユダヤ人の入学許可の人数を制限しており、入学を許されなかった。そこで同地の音楽院に入り、1943年までファルカシュ・フェレンツに作曲を学んだ。

第二次世界大戦では、家族はばらばらに強制収容所に入れられ、父はアウシュヴィッツ・ビルケナウで、弟はマウトハウゼンで命を落とした。戦後はブダペストのリスト・フェレンツ音楽大学でコダーイ・ゾルターンやカドシャ・パールらに学び、1950年から1956年まで同大学で和声と対位法を教えた。リゲティは社会主義リアリズムとは距離を置き、民謡とハンガリーの古典詩をもとに作曲したが、しばしば演奏が禁止されたため、公表せず自分のためだけに書くようになった。この時代の『ムジカ・リチェルカータ』や弦楽四重奏曲第1番は、亡命後の作品と傾向が違うものの、すでに非常に独創的だったが、当時のハンガリーでは発表の機会がなかった。

ハンガリー動乱がソ連軍に鎮圧された1956年末にオーストリアへ亡命した。1957年から1959年にかけて西ドイツのケルンの電子音楽スタジオで働き、そこでウェーベルンやシュトックハウゼン、ブーレーズらの新しい音楽を吸収して、ブダペスト時代からあたためてきた着想を発展させ、自らの音楽を書き始めた。1959年からはウィーンに住み、1968年に市民権を得た。1972年にはスタンフォード大学の作曲家として渡米し、1973年から1989年にかけてハンブルク音楽演劇大学で作曲の教授を務めて、多くの弟子を育てた。

1960年の『アパリシオン』と翌年の『アトモスフェール』で大きな反響を得た。この時期の作品は、トーン・クラスターを特徴とし、音の密度が高く、聞き手が個々の声部を知覚できないものを「ミクロ・ポリフォニー」と呼んだ。『ルクス・エテルナ』(1966年)以降は、全音階的な旋律を複雑に重ねる技法に移った。もう一つの技法は、細かい音符を機械仕掛けのように繰り返すもので、『100台のメトロノームのためのポエム・サンフォニック』に始まり、『コンティヌウム』以降しばしば用いられた。1970年代には旋律のはっきりした『メロディーエン』やオペラ『ル・グラン・マカブル』の作風となった。1982年の『ヴァイオリン・ホルン・ピアノのためのトリオ』以降は、微細な音程のずれや複雑なポリリズムを使い、ナンカロウを高く評価し、アフリカの音楽にも関心を持った。この時期の代表作には、晩年まで書き続けたピアノのための『練習曲』がある。

スタンリー・キューブリック監督は、『2001年宇宙の旅』や『シャイニング』などで彼の音楽を使ったため、その音楽はクラシックの外でも広く知られる。1949年に結婚したが、1952年に離婚し、1954年にブダペスト出身の精神分析学者ヴェラ・シュピッツと再婚した。ハンガリー動乱のとき夫妻は共にオーストリアへ亡命し、1965年に息子ルーカスが生まれた。1991年に高松宮殿下記念世界文化賞を、2001年に京都賞を受けた。2006年6月12日、ウィーンで没した。

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