HISTORICAL PERSON · 1918年没

グスタフ・クリムト

オーストリアの画家。工芸学校で学び、弟や友人と美術・デザインの請負を始めて劇場装飾を手がけた。ハンス・マカルトの影響を受け、その継承者と見なされた。

生涯
1918年没
死亡地
オーストリア共和国(ウィーン)
出生地
オーストリア共和国(バウムガルテン)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ウィーン)

伝記

グスタフ・クリムトは、1862年7月14日に、ウィーン郊外のバウムガルテン(ペンツィング)で生まれた、帝政オーストリアの画家である。父エルンストはボヘミア出身の彫版師、母アンナは地元ウィーンの出身で、クリムトは7人きょうだいの第2子であった。1876年に博物館付属の工芸学校に入学し、のちに弟たちもこの学校に学んで、それぞれ彫刻師、彫金師となり、クリムトの作品を飾る額の設計をした。工芸学校では、石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とする古典主義的な教育を受けた。1879年には、弟エルンスト、友人のフランツ・マッチュと共同で、美術やデザインの請負を始めた。ハンス・マカルトの影響を受け、1884年にマカルトが没すると、その継承者と見なされた。

卒業後に3人は芸術家商会を設立した。劇場装飾を中心とした仕事はすぐに軌道に乗り、フィウメやブカレストなどへも派遣された。1886年から1888年までは、ウィーンのリングシュトラーセ沿いに建てられたブルク劇場の装飾を引き受け、この功績で、のちに金功労十字賞を授与された。ウィーン市の依頼で1888年に制作した『旧ブルク劇場の観客席』は、観劇する当時のウィーン社交界の人々を正確に描いて、第一回皇帝賞を受けるなど高く評価された。美術史美術館の装飾も手がけた。名声を確立した彼は、1891年にウィーン美術家組合に加入した。1893年には早くもウィーン美術アカデミー教授に推薦されたが、任命されなかった。1892年に父と弟のエルンストが亡くなっている。

装飾家として名声を得ていたクリムトは、1894年にウィーン大学の大講堂の天井画の制作を依頼され、『哲学』『医学』『法学』の3点を担当することになった。人間の知性の勝利を歌いあげるという依頼者の意図に反し、これらは理性の優越性を否定する寓意に満ちていたため、その是非をめぐって大論争が起こった。1900年と1901年に『哲学』と『医学』が公開されると論争が再燃し、帝国議会で依頼主の文部大臣が攻撃される事態に発展した。あまりの論争の大きさに、彼は契約の破棄を求め、受け取っていた報酬を返却した。売却された3枚の絵は、のちにナチスによって没収され、1945年に親衛隊が撤退する際の放火で焼失した。

1897年には、保守的な美術家組合を嫌った芸術家たちによってウィーン分離派が結成され、彼が初代会長を務めた。分離派は、古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループで、展覧会や出版を通じて、モダンデザインの成立に大きな役割を果たした。1902年の第14回分離派展(ベートーヴェン展)には大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出品して反感を買ったが、現在は分離派会館に展示されている。翌1903年の第18回分離派展では、回顧展示が行われ、この展覧会で初めて出品されたのが『人生は戦いなり(黄金の騎士)』である。1905年に、分離派内部の対立などから、同志とともに分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成した。上流階級の婦人たちの肖像画を多く手がけ、『接吻』に代表される黄金の時代の作品では金箔を多用した。1910年代には作品が少なくなり、装飾的な作風から離れていった。1918年に脳梗塞を発症し、肺炎にもかかって、同年2月6日にウィーンで死去した。ヒーツィンガー墓地に埋葬されている。生涯結婚はしなかったが、多くのモデルと愛人関係にあり、最期の言葉は「エミーリエを呼んでくれ」であった。日本や東アジアの文化の影響も強く受けたとされ、浮世絵や琳派の影響が諸作品に見られる。

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