HISTORICAL PERSON · 1975年没

グスタフ・ヘルツ

ドイツの物理学者。原子が離散的なエネルギーを持つことを検証するフランク=ヘルツの実験を行い、1925年にフランクとともにノーベル物理学賞を受賞した。

生涯
1975年没
死亡地
ドイツ民主共和国(ベルリン / 東ベルリン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ハンブルク)
出典
世界地図
ドイツ民主共和国(ベルリン)

伝記

グスタフ・ルートヴィヒ・ヘルツは、1887年7月22日にハンブルクで生まれ、1975年10月30日にベルリンで没したドイツの物理学者である。ジェイムス・フランクとともに、1925年のノーベル物理学賞を受けた。ハインリヒ・ヘルツの甥にあたる。

父は弁護士のグスタフ・ヘルツ、母はアウグステ・アルニングである。ハンブルクのヨハンネウムで学び始め、ゲッティンゲン大学(1906年から1907年)、ミュンヘン大学(1907年から1908年)、ベルリン大学(1908年から1911年)で学んだ。1911年に、ハインリヒ・ルーベンスの指導のもとで博士号を得ている。1913年にはベルリン大学の物理学研究所で研究助手の職を得た。

翌1914年、フランクとともに、気体中での電子の非弾性衝突に関する実験を行った。これがフランク=ヘルツの実験と呼ばれるもので、原子が離散的なエネルギーを持つというボーアの量子論の原子模型を検証し、後押しする結果となった。この実験により、二人は1925年にノーベル賞を共同で受賞した。

第一次世界大戦が始まると動員され、1915年にはフリッツ・ハーバーの部隊に加わったが、同じ年に前線で重傷を負った。1917年にベルリンへ戻ったが元の職には戻れず、ベルリン大学の私講師となったのち、1920年にはオランダのアイントホーフェンにあるフィリップス社の白熱電球工場で、研究者として働いた。1925年にハレ大学の物理学研究所長となり、1928年にはベルリン工科大学(シャルロッテンブルク工科大学)の物理学研究所長に就いて、気体拡散による同位体分離の技術を開発した。

ところが、ユダヤ系の家系であったために、ナチスの政策が厳しくなるなかでその職を追われた。第一次世界大戦で将校を務めていたことから、しばらくは保護されていたとされる。祖父が子どものころユダヤ人で、一家は1834年にルター派に改宗していたが、「第二級のユダヤ人」に分類され、1934年末とも1935年ともいわれる時期に辞職を余儀なくされたという。同じころシーメンスの第2研究所の所長となり、原子物理学や超音波の研究を続けて、1945年までシーメンスにとどまった。

1945年、ソビエト連邦へ渡った。身の安全を案じたヘルツは、マンフレート・フォン・アルデンネ、ペーター・アドルフ・ティーセン、マックス・フォルマーの三人の同僚と、最初にソ連側と接触した者が全員を代表して話すという約束を交わしていたとされる。1945年から1954年まではソ連の研究所で働き、その後はライプツィヒにあるカール・マルクス大学(現ライプツィヒ大学)で1961年まで働いた。受けた賞には、1951年のマックス・プランク・メダルとスターリン賞、1959年のヘルムホルツ・メダルがある。

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