伝記
橋本龍太郎は、1937年(昭和12年)7月29日、東京市渋谷区に、大蔵官僚の橋本龍伍と春の長男として生まれた政治家である。母の春は警視総監などを務めた大野緑一郎の長女だったが、中耳炎をこじらせて、龍太郎を産んだ5か月後に急死した。官僚の父には転勤がつきものだったため、旧熊本藩士の出である祖母の真都に育てられ、6歳のときに継母の正を迎えた。麻布中学では学校の勉強にまったくついていけず、成績は常に最下位だったという。受験番号が一つ違いだった作家の安部譲二とは仲良くなり、3年間同じクラスだった。麻布高校では山岳部に入って登山に明け暮れ、1956年に慶應義塾大学法学部政治学科に入った。足に障害のあった父に門戸を開いた唯一の高等学校が慶應だったため、以後ずっと強い愛校心を抱いた。大学でも剣道に力を入れ、前に出て攻めるので「突貫剣士」と呼ばれた。卒業後は呉羽紡績に入社した。
社会人3年目の1962年に父が急死した。父の意中の後継者は弟の大二郎で、本人も政界に進むつもりはなかったが、弟は未成年で被選挙権がなく、父と親交の深かった佐藤栄作の指名により、亡父の後継者として出馬することになった。厚生大臣だった父の足跡をたどり、厚生省の会議を見学して猛勉強したという。1963年の総選挙に26歳で初当選し、このとき小渕恵三も初当選した。初登院に継母が付き添ったため、報道では「マザコン代議士」と冷やかされた。当選後に遠縁の久美子と結婚し、媒酌人は佐藤が務めた。
1978年12月、第1次大平内閣の厚生大臣となり、41歳で初入閣した。昭和2桁生まれの閣僚は橋本が初めてで、「親子二代の厚相」と取り上げられ、スモン訴訟の和解に力を尽くした。竹下登を中心とする創政会の結成に参加し、竹下派七奉行の一人となった。1986年には第3次中曽根内閣の運輸大臣として、国鉄の分割民営化に辣腕を振るい、自分の似顔絵を描いたオレンジカードをつくって配った。1989年に自民党の幹事長となり、同年8月から大蔵大臣を務めたが、1991年10月、証券不祥事の責任を取って辞任した。1993年の総選挙では、河野洋平、石原慎太郎と並んで「三本の矢」と呼ばれ、全国を遊説した。
1994年に発足した自社さ連立の村山内閣では通商産業大臣を務め、日米自動車交渉で米国通商代表のミッキー・カンターと渡り合った。自民党総裁に就任すると副総理を兼ね、1996年、村山首相の退陣を受けて内閣総理大臣に就任した。在任中は住宅金融専門会社(住専)の問題と行財政改革に取り組み、外交ではクリントン米大統領やエリツィン露大統領と親交を深めた。京都議定書に署名したことでも知られる。しかし、1998年の第18回参議院議員通常選挙で自民党が惨敗すると、責任を取って辞任した。その後も、同期当選の小渕首相の下で外交特別顧問を務め、第2次森改造内閣では行政改革担当大臣と沖縄開発庁長官を務めた。
2001年の自民党総裁選に再起をかけて出馬したが、小泉純一郎に敗れた。2005年の総選挙には出馬せず、地盤を次男の橋本岳に譲って政界を引退した。翌2006年7月1日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- Eugene Lazowski (2006年没)
- スザンヌ・モロー (2006年没)
- クリフォード・ギアツ (2006年没)
- ルース・ブラウン (2006年没)
- Alberto Terry (2006年没)