HISTORICAL PERSON · 2006年没

アルフレド・ストロエスネル

パラグアイの軍人・政治家。1954年のクーデターで政権を握り、35年にわたり大統領を務めた独裁者。イタイプ・ダム建設で経済成長を遂げたが、1989年のクーデターで失脚しブラジルへ亡命した。

生涯
2006年没
死亡地
ブラジル連邦共和国(ブラジリア連邦直轄区 / ブラジリア)
出生地
パラグアイ共和国(エンカルナシオン)
出典
世界地図
ブラジル連邦共和国(ブラジリア連邦直轄区)

伝記

アルフレド・ストロエスネル・マティアウダは、1912年11月3日にパラグアイ南部のエンカルナシオンで生まれた軍人、政治家である。父はドイツ系移民のビール醸造業者、母はパラグアイ人の農婦で、母からグアラニー語を教わって完璧に話せるようになった。士官学校ではおとなしく真面目な生徒で、17歳でパラグアイ陸軍に入った。ボリビアとの間で戦われたチャコ戦争にも従軍したが、特に軍功は立てなかった。1947年に中佐となり、軍の反動派に属して、内戦では大統領側で戦った。1948年に准将となり、南米諸国で最年少の将官となった。

しかし同じ年に、反乱軍の指揮を依頼されたものの反乱は失敗に終わり、ストロエスネルは車のトランクに隠れてブラジル大使館に亡命した。以後、「トランク大佐」と呼ばれるようになった。帰国後の1951年に陸軍総司令官に就き、1954年5月、陸軍中将のときに軍事クーデターを起こして国防相となり、実権を握った。クーデターのとき、抵抗した警察との銃撃戦で50人が死亡した。同年7月、コロラド党の党首として、対立候補のないまま大統領に選ばれた。

パラグアイ共産党を非合法化し、続いてすべての革新団体を禁止して、新聞の自由を制限し、独裁体制を確立した。予算の6割を軍事費に充てたという。1956年から翌年にかけての左翼勢力による権力奪取の試みは失敗し、反ストロエスネル派の人々は海外へ亡命した。以後、1958年から1988年まで、5年の任期ごとに計8回当選した。教師や医師、役人には党への加入を義務づけ、忠誠の見返りに1万人の軍人に土地を与えた。徹底した反共主義者で、非同盟のユーゴスラビアを除く共産圏とは国交を結ばず、アメリカをはじめとする西側諸国の厚い庇護を受けた。隣国のアルゼンチンなど中南米に軍事政権が多く、民主化を求める流れがまだ強くなかったことも、長期政権を支えた。ドイツ系でもあることから、ヨーゼフ・メンゲレをはじめ、第二次世界大戦時のドイツの戦犯容疑者の亡命や潜伏を黙認した。また、宗教弾圧や汚職、先住民の虐殺などの人権侵害で、国際的に批判を浴びた。

その一方で、アメリカやドイツ、日本の借款を受けて近代化を進め、インフラを整備した。ブラジルの軍事政権との関係を強め、世界最大級の水力発電所であるイタイプ・ダムを建設して、電力を隣国に売った。パラグアイの経済は1973年から1982年まで、年8%という成長を遂げた。しかし対外債務の増大やダムに頼った経済、恩恵を受けた官僚の腐敗が重なって、1983年以降は成長が鈍った。日本との関係は親密で、1959年の移住協定では、30年間に85,000人の日本人移住者を受け入れることを約束した。1972年4月には国賓として日本を訪れ、自らの誕生日が明治天皇と同じことから「明治天皇の生まれ変わり」と呼んだという逸話もある。

冷戦が終わりに向かい、周辺諸国が民主化するにつれ、アメリカからも見放された。1989年、最側近のアンドレス・ロドリゲス将軍のクーデターで政権の座を追われ、自宅軟禁ののち、国外亡命を許されてブラジルに逃れた。2006年8月16日、ブラジリアの病院でヘルニアの手術を受けた後、肺炎などの合併症を起こし、93歳で亡くなった。遺族は遺体を本国に送ろうとしたが認められず、ブラジリアの市営墓地に埋葬された。パラグアイでは、若い世代が当時を知らないこともあり、市民の関心は意外なほど薄く、新聞は「独裁者の死」として、過去の忌まわしい荷物をようやく下ろせたという論調で報じた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物