HISTORICAL PERSON · 2006年没

ジューン・アリソン

アメリカの女優・歌手。ブロンクスに生まれ、幼い頃の大怪我のリハビリで水泳やダンスに励んだ。ブロードウェイの舞台から映画界に進み、活躍した。

生涯
2006年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / オーハイ)
出生地
アメリカ合衆国(ブロンクス区)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ジューン・アリソンは、1917年10月7日、ニューヨーク市ブロンクス区に生まれたアメリカの女優、歌手である。本名はエレノア・ガイスマンといい、愛称はエラだった。母クララと父ロバートの娘で、兄ヘンリーがいた。清掃員として働いていた父は、アルコール依存で家を去り、のち両親は離婚した。一家はほとんど貧困に近い暮らしで、母は電話交換手やレストランのレジ係として働き、娘は祖父母や親戚に預けられることが多かった。経歴は撮影所が作った伝記によって混乱し、フランスとイギリスの血を引くとされたり、オランダ系を名乗ったりした。

1925年、8歳のとき、三輪車に乗っていて倒れてきた木の枝の下敷きになり、頭蓋骨の骨折と背中の骨折という大けがを負った。医師は二度と歩けないと言い、首から腰までを重い鋼鉄の装具で4年間固定された。やがて車椅子から松葉づえ、装具へと回復していった。苦しい生活からの逃げ場は映画館で、ジンジャー・ロジャースとフレッド・アステアの映画に夢中になった。ロジャースのダンスの型を暗記し、『コンチネンタル』を17回見たと語っている。水泳でのリハビリが成功したという話は、のちの自伝では、夏の水泳の取り組みが回復を助けたと記される一方、撮影所の宣伝のために脚色された部分もあったとされる。母の再婚で生活が安定すると、ダンス学校に通い、競技会にも出た。

継父の死もあって高校を途中でやめ、ダンサーの職を探した。最初の仕事は、モントリオールのクラブでのタップダンサーで、週給は60ドルだった。ニューヨークに戻ってからは短編映画に出演し、1938年にミュージカル『シング・アウト・ザ・ニュース』のコーラスでブロードウェイにデビューした。医者を目指しており、舞台の出演は学資を稼ぐためだったという。1941年に、ベティ・ハットンの代役を務めたミュージカルでの演技が評判を呼び、ジョージ・アボットが自分の製作する『ベスト・フット・フォワード』に抜擢した。1943年の映画化でもそのまま出演してハリウッドデビューを果たし、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー社と契約した。『ガール・クレイジー』などのミュージカル映画で評価を高め、1944年の『姉妹と水兵』のヒロイン役でトップ女優の仲間入りをした。ヴァン・ジョンソンとは、1940年代半ばに6本で共演している。1945年8月19日に、俳優のディック・パウエルと結婚して周囲を驚かせ、二人の子をもうけた。

1949年には、マーガレット・オブライエン、エリザベス・テイラーと共演した『若草物語』で主演し、ジェームズ・ステュアートとは『甦る熱球』『グレン・ミラー物語』『戦略空軍命令』の3本で妻役を演じた。1951年の出演作でゴールデングローブ賞のミュージカル・コメディ部門主演女優賞を受け、1954年の『重役室』では、他のキャストとともにヴェネツィア国際映画祭の審査員特別賞を受けている。親しみやすい容貌とハスキーな声で「隣の女の子」の人気を確立した。1963年にパウエルが癌で亡くなったあと、グレン・マクスウェルと再婚したが1年と持たず、1976年にはデヴィッド・アシュロウと再々婚した。のちに失禁に悩む人々の助けとなる財団を設立した。1982年には自叙伝を出版した。2006年7月8日、カリフォルニア州オーハイで88歳で亡くなった。死因は急性気管支炎による呼吸不全だった。

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