伝記
ロバート・アルトマンは、1925年2月20日、ミズーリ州カンザスシティに生まれたアメリカ合衆国の映画監督である。1943年、第二次世界大戦中の18歳でアメリカ陸軍航空軍に入隊した。1946年にカリフォルニアに移り住み、原案を映画会社に売ったのち、コマーシャルの仕事を始めて、撮影や編集の方法を学んだ。1957年に初の長編劇映画『不良少年』を撮り、本人は「酷い出来」と言ったが、アルフレッド・ヒッチコックは感心し、テレビの「ヒッチコック劇場」の演出を依頼した。『ボナンザ』『ルート66』など多くの連続テレビドラマを手がけて売れっ子となり、1962年には『コンバット!』のプロデュースと初期10話の演出を務めた。自身の戦争体験を描いたためリアリティが強く、プロデューサーと対立したものの、シリーズは5年間続く人気番組になった。
映画界に戻り、1968年にワーナー・ブラザースで『宇宙大征服』を撮った。完成前にラッシュを見たジャック・ワーナーは、俳優に同時に会話をさせたことを理由に彼を解雇した。1970年公開の朝鮮戦争を扱った『マッシュ』で、監督としての地位を確立した。戦争ものでありながら、従来のイメージを覆すブラック・コメディ仕立てで、大ヒットしてカンヌ国際映画祭の最高賞を受けた。1971年の『ギャンブラー』で初めて西部劇を撮り、「アンチ西部劇」的な演出で評価された。1973年にはレイモンド・チャンドラーの小説を映画化した『ロング・グッドバイ』を発表した。興行的に成功しなかったが、のち評価が高まった。総勢24人の登場人物を描いた群像劇『ナッシュビル』(1975年)ではカントリー音楽を通してアメリカの本質を描き、アカデミー賞の作品賞と監督賞にノミネートされ、1976年の『ビッグ・アメリカン』はベルリン国際映画祭の金熊賞を受けた。
しかし1970年代の終わりから失速し、ロビン・ウィリアムズ主演の『ポパイ』(1980年)が興行的にも批評的にも失敗すると、ハリウッドから遠ざかった。1980年代はオフ・ブロードウェイで舞台の演出をしたり、ミシガン大学で教えたりして過ごした。大学では生徒をスタッフに起用し、一人芝居の『名誉ある撤退~ニクソンの夜~』(1984年)を制作して高い評価を得た。1990年代にハリウッドに戻り、1992年にハリウッドの舞台裏を描いた群像劇『ザ・プレイヤー』で、カンヌ国際映画祭の監督賞を受け、アカデミー賞の監督賞にもノミネートされて復活を果たした。1993年にはレイモンド・カーヴァーの短編をもとにした『ショート・カッツ』でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受け、世界三大映画祭の最高賞をすべて取った史上3人目の監督となった。
2001年の『ゴスフォード・パーク』はゴールデングローブ賞の監督賞を受賞し、アカデミー賞の作品賞と監督賞にノミネートされた。2006年には長年の功績に対して第78回アカデミー賞で名誉賞を贈られた。監督賞に5回、作品賞に2回ノミネートされながら、受賞は初めてだった。授賞式のスピーチで、心臓移植を受けていたことを明かした。同年2月に遺作となった『今宵、フィッツジェラルド劇場で』をベルリン国際映画祭で発表したばかりで。2006年11月20日、ロサンゼルスの病院で癌のため81歳で亡くなった。「ハリウッドの異端児」と呼ばれ、複数の俳優に会話の中で同時にせりふを言わせるなど、音の使い方に革新的な手法を用いた。俳優には即興の演技をさせ、台本を青写真と呼んで現場では使わなかったという。
同じ年に亡くなった人物
- ベティ・クルティス (2006年没)
- ヒューベルト・ランポ (2006年没)
- Mario Ortiz (2006年没)
- ピーター・ノーマン (2006年没)
- ミッキー・ハージティ (2006年没)
同じ地域に関係する人物
- ブラッド・デイヴィス (俳優) (1991年没)
- ジェームズ・フローリー (2019年没)
- ロバート・ギローム (2017年没)
- エフレム・ジンバリスト・ジュニア (2014年没)
- ウィルフレッド・ジャクソン (1988年没)