HISTORICAL PERSON · 340年没

コンスタンティヌス2世

コンスタンティヌス1世の長男で、337年に兄弟と共に即位したローマ皇帝。ブリタンニアやガリアを治め、弟コンスタンス1世の領土へ侵攻して340年に戦死した。

生涯
340年没
死亡地
イタリア共和国(ウーディネ県 / アクイレイア)
出生地
フランス共和国(アルル)
出典
世界地図
イタリア共和国(ウーディネ県)

伝記

コンスタンティヌス2世は、ローマ帝国の皇帝(在位337年〜340年)である。全名はカエサル・フラウィウス・クラウディウス・コンスタンティヌス・アウグストゥスといい、316年2月ごろに生まれ、340年春に没した。皇帝コンスタンティヌス1世と、マクシミアヌス帝の娘である2番目の妻ファウスタとのあいだの長男で、前妻ミネルウィナとの子クリスプスがいたため、父から見れば次男にあたる。ガリアのアルルで生まれたとされるが、生年については、317年2月、316年夏、314年3月などの異説があり、没年齢は20代前半から半ばと推定されている。

実母をファウスタではなく父の妾だった女性とする説や、ミネルウィナの子でクリスプスの同母弟とする文献もあるが、歴史家の間では後者の説には否定的な見方が強い。ファウスタは不義密通の罪で処刑され、彼は宦官が取り仕切る宮廷で、二人の弟とともに育てられた。生まれて間もなく副帝に立てられたとされ、317年3月1日にセルディカで正式に副帝となった。323年のサルマタイ人に対する父の遠征に同行し、その勝利を記念する貨幣に名が刻まれた。328年まで父のもとで暮らしたが、この年にトリーアに自分の宮廷を置いた。328年から330年ごろの碑文からは、将軍たちがアラマンニ族に勝利したことがうかがえる。332年冬のゴート族に対する戦いでは、父から野戦の指揮官を任され、10万人のゴート族が殺されたとも、首長が降伏したとも伝えられ、この功績を祝う競技祭がローマで始められた。執政官は320年、321年、324年、329年の4回務めた。335年以前に結婚したことが記録から知られるが、妻の素性は分からない。

337年5月22日、父が死去し、葬儀はコンスタンティノープルで行われたが、彼は距離が遠く参列しなかった。父は息子たちに、従兄弟のダルマティウスとハンニバリアヌスと権力を分け合わせるつもりだったが、葬儀のあとの9月、コンスタンティノープルの親族が粛清された。首謀者はおそらく次弟のコンスタンティウス2世とされ、彼自身が直接関わった証拠はない。彼は、この年の6月、まだ皇帝を名乗る前に、追放されていた司教アタナシオスがアレクサンドリアに戻ることを認める命令を出し、父の果たされなかった意図を実行するのだと称して、自らの年長の立場を示そうとしていた。動機は不明である。兄弟は会談を行い、9月9日にそろってアウグストゥスとして即位した。彼はブリタンニア、ガリア、ヒスパニアを治めたが、弟たちが得たものに比べ、ダルマティウスの排除から得るところは少なかった。

即位から3年に満たないうちに、彼は年長であることから、三弟コンスタンス1世の領土に対して優位があると考え、北アフリカの領土の分割を要求した。断られると、アルプスを越えて弟の領土に攻め込んだ。338年にはアラマンニ族との戦いに成功するなど、自らの立場を保ち続けていたが、340年春、北イタリアに侵攻したものの、準備が不十分で、アクィレイアの近くの戦闘で捕らえられ、殺された。コンスタンス1世は戦闘に加わらず、4月9日に兄の死を知らされたため、コンスタンティヌス2世の死はそれ以前とされる。子孫は残さなかった。

祖父コンスタンティウス1世を、ゴティクス帝の姪の子とする系譜は、歴史家の多くから、地位の高い二人の末裔に見せかけるための捏造と考えられている。

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