伝記
アリウスは、アレクサンドリアの司祭で、キリスト教のアリウス主義の名の由来となった人物である。250年または256年ごろに生まれ、336年に没した。ギリシア語の名アレイオスの形でも呼ばれる。出身は北アフリカのリビア、キュレナイカの人とされ、ベルベル人の家系で、父の名はアンモニオスと伝えられる。アンティオキアの長老で、のちに殉教した神学者ルキアノスに学んだとされる。ただし、ある研究者は、ルキアノスの弟子だったと断定できるか疑問を示す。
313年、彼はアレクサンドリアのバウカリス地区の司祭となった。人柄については、敵対者から厳しく攻撃されたが、禁欲的で品行が正しく、強い信念をもつ人物だったらしい。伝わる描写によれば、背が非常に高く、うつむき加減で、短い外套と袖なしの上着をまとい、穏やかに話し、人々は彼を説得力があると感じたという。巧みな話術と献身的、禁欲的な態度で人気を集め、エジプトからオリエント全域に、従属主義的な教えを広めた。近年の研究は、彼を急進的な改革者ではなく、アレクサンドリアの伝統に立つ神学的な保守派とみなし、独創的で鋭い思想家だったと評価する。
アリウス論争は、318年から319年ごろに起こった。アリウスは、子であるイエス・キリストが生まれた者である以上、父なる神と同質ではありえないと説き、ユダヤ教に近い厳格な唯一神の考え方を示した。神の子は、万物に先立って父によってつくられた最初の者であり、父と同じく永遠ではないというのである。これに対して、司教アレクサンドロスやアタナシオスらは、キリストの誕生を人間の誕生と同じに考えるべきではないとし、父と子は同質だとする三位一体論を説いた。論争は、司教と司祭の対立が発端となったが、双方の立場は、二人の争い以前からすでにあり、衝突は避けがたかったと考える研究者もいる。彼が単独の創始者だったのではなく、危機に火をつけた人物だとする見方である。
アレクサンドロスは、321年ごろの地方会議でアリウスを破門し、彼はイリュリクムへ追放された。コンスタンティヌス1世は調停を試みたが果たせず、解決をコルドバの司教オシウスにゆだねた。325年の第1ニカイア公会議で、アリウスの教えは異端とされ、採択された『ニカイア信条』により、父なる神と子なるキリストは同質であることが確認され、アリウスとその同調者の破門が決まった。皇帝がアリウス主義を、帝国の独裁政治の理念に都合のよい思想として、積極的に支援したとする見方もある。その後、反ニカイア派の指導者の仲裁などによって復帰を許されたが、336年にコンスタンティノープルで死んだ。
アリウス自身の著作は、ほとんど残らず、三通の手紙と断片が伝わるだけで、その中には、アレクサンドロスに提出した信仰告白や、ニコメディアのエウセビオス宛ての手紙がある。唯一知られる神学的な著作『タリア』は、敵の著作に引用された抜粋でしか残っていない。抜粋の多くは最大の敵対者アタナシオスの筆によるもので、意図が歪められた可能性も指摘されている。皇帝は彼の存命中にその書の焼却を命じた。その教えを奉じたアリウス派は、381年の第1コンスタンティノポリス公会議で禁じられ、451年のカルケドン公会議でも再び異端と確認された。それでも彼の死後、ゲルマン人の王国などに教会が残り、5世紀から7世紀にかけて征服や王の改宗によって消えていった。
同じ年に亡くなった人物
- Wisimar (336年(推定))
- マルクス (ローマ教皇) (336年没)
同じ地域に関係する人物
- ニケフォロス3世ボタネイアテス (1081年没)
- タラール1世 (1972年没)
- Hussein Avni Pasha (1876年没)
- マヌエル・コムネノス (1185年没)
- イェレミアス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教) (1595年没)