HISTORICAL PERSON · 1972年没

タラール1世

ヨルダンの第2代国王。1951年に即位したが、議会により退位を余儀なくされ、長男フセイン1世が後を継いだ。10ディナール紙幣に肖像が使われている。

生涯
1972年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / イスタンブール)
出生地
サウジアラビア王国(メッカ)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

タラール・ビン・アブドゥッラー(タラール1世)は一九〇九年二月にメッカに生まれた。父アブドゥッラーはメッカの有力者であるフサインの子で、母はムスバ・ビント・ナーセルである。長男として生まれたタラールは、ハーシム家の王統に属し、預言者ムハンマドの三十九代目の子孫とされる。祖父フサインとその息子たちは一九一六年、オスマン帝国に対するアラブ反乱を率いた。父はオスマン帝国議会のアラブ人代議士を務めた後、一九二一年にトランスヨルダン首長国を建てて首長となり、一九四六年の独立後にヨルダン国王となった。首長国は独立とともにハーシム王国となった。父の不在時期には母と過ごし、アンマンで私教育を受けた。私教育の後、サンドハースト王立陸軍士官学校に学び、アラブ軍団に少尉として加わった。加わった年は一九二七年、士官学校の卒業は一九二九年とされ、一九三九年卒業とする説もある。タラールの騎兵連隊はエルサレムの英国連隊とバグダッドの王立砲兵隊に配属された。追放されキプロスにいた祖父フサインの副官を務め、一九四八年までにアラブ軍団の将軍となった。

一九三四年、ザイン・アル=シャラフ・ビント・ジャミールと結婚し、翌年には長男フセインが生まれた。一九四六年にヨルダンが独立すると、父の指名によって皇太子となった。一九五一年七月二十日、父王アブドゥッラー一世がエルサレムで暗殺され、タラールは第二代国王に即位した。父と金曜礼拝に同行していた十五歳のフセインも襲撃に遭いかけたが、命を取り留めた。暗殺者は、父王がイスラエルとの関係を正常化することを恐れていたとされる。国王としての在位は一年余りで十三か月には満たなかったが、一九五二年には新憲法の制定に関わった。この憲法は政府全体と各大臣に議会への責任を負わせ、ヨルダンを立憲君主制とするものだった。一月一日に批准され、タラールが国王として残した最も称えられる業績とされる。在位中は、エジプトやサウジアラビアなど周辺のアラブ諸国との緊張した関係を和らげるのにも力を尽くしたと評価される。

タラールは英国の介入に強い反感を示したとされ、アラブ軍団を率いる英国人将校グラブ・パシャとも対立した。従兄弟ラーアドは、祖父フサインと英国が結んだ合意を英国側が十分に守らなかったことが反感の背景だと説明した。英国駐在官アレック・カークブライドは父との緊張に結び付けたが、歴史家アヴィ・シュライムは英国の干渉に対する反発は本物だったと論じた。王位継承をめぐる危機の際、エジプトやシリアの新聞はタラールを愛国的な反帝国主義者と紹介し、王位を求めた弟ナーイフと対照的に描いた。異母弟ナーイフが摂政となっていたが、議会はタラールの精神状態が悪いとして退位を求め、一九五二年八月十一日に退位が決まった。後継者は長男のフセインで、同日に王位を継いだものの、法定年齢に達していなかったため、正式に国王となったのは一九五三年五月二日である。

タラールには四男二女がおり、成人したのはフセイン、元王太子ハッサン、ムハンマド王子の三人の息子と一人の娘だった。退位後はイスタンブールの療養所で暮らし、一九七二年七月七日に死去した。ヨルダンで発行される十ディナール紙幣には、タラールの肖像が用いられている。

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