伝記
レナード・ジェームズ・キャラハンは、1912年3月27日にイングランドのポーツマスで生まれたイギリスの政治家で、財務大臣、内務大臣、外務・英連邦大臣、そして首相を歴任した。労働党の「巨人」と称され、「サニー・ジム」「ビッグ・ジム」の愛称で呼ばれた。首相になる前に、財務、内務、外務という三つの重要閣僚職をすべて経験したのは、20世紀ではキャラハンが初めてであった。労働者階級の家に生まれ、父ジェームズは、アイルランドのカトリック教徒の父とユダヤ系の母の間に生まれた。曽祖父はジャガイモ飢饉を逃れてイングランドに来たとされる。父は1890年代に家出して海軍に入り、入隊できる年齢に一年足りなかったため、誕生日を偽り、苗字をギャログハンからキャラハンに変えた。第一次世界大戦に従軍したが、息子が9歳の1921年に亡くなった。母シャーロットはバプテスト教会の信徒で、父はカトリックを捨てて、バプテストの礼拝堂で結婚したという。一人の姉ドロシーがいた。
学校を早く離れ、1929年に税務署の職員として働き始めた。すぐに組合活動を始め、1936年から1947年まで副書記長を務めた。第二次世界大戦中は海軍で中尉を務めた。1945年の総選挙で当選して、労働党の庶民院議員となり、当初は党の左派と見なされたが、1947年に政務次官として政権に入ると、しだいに右派へ傾いた。その後も議員に当選し続け、1987年に政界を引退した。1963年1月に党首ゲイツケルが急死すると、党首選に立候補したが、結果は3位で最下位だった。
1964年にハロルド・ウィルソン内閣が発足すると、財務大臣として入閣した。国際収支の赤字に苦しむポンドの防衛にあたったが、ポンド売りが殺到した。1967年11月18日にはポンドの切り下げに踏み切り、これをきっかけに内務大臣に転じた。この職では、北アイルランド政府の要請で、警察を助ける陸軍の活動を取り仕切った。1970年の政権交代で内務大臣を離れ、1974年に政権が戻ると、外務・英連邦大臣に就任した。イギリスの欧州共同体への残留問題では、閣内が賛否に割れる中、キャラハンとウィルソンは残留派で、庶民院の投票と1975年の国民投票を経て、残留が決まった。
1976年3月にウィルソンが突然辞意を示すと、5人の相手を破って党首に選ばれ、4月5日に首相に任命された。労働党は議会の過半数を失っており、補欠選挙の敗北や離党が相次いで、自由党と協力の合意を結んだ。在任中は、いわゆる「イギリス病」で経済が不振を極め、ストライキとインフレで社会不安が増した。1978年から翌年にかけての「不満の冬」では、大規模な争議が続いた。1979年3月28日に出された内閣不信任案は、311対310の1票差で可決された。5月の総選挙で労働党は敗れ、保守党のマーガレット・サッチャーが政権に就いた。この敗北から、労働党は18年間の野党生活に入った。キャラハンは個人的には人気があったとされる。
1980年11月に党首を退いたが、議員は続け、1983年から1987年までは、最も長く議員を務める「庶民院の父」だった。1987年に引退し、一代貴族としてカーディフのキャラハン男爵に叙せられた。晩年は元首脳らの集まりに加わり、核廃絶の活動にも関わった。2005年3月15日に妻を亡くし、93歳の誕生日の前日にあたる3月26日、イースト・サセックスの自宅で、92歳で亡くなった。歴代の英国首相で最も長生きした。
同じ年に亡くなった人物
- Leopold Gernaey (2005年没)
- キャミロ・フェルゲン (2005年没)
- オードリー・ブラウン (2005年没)
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- ジョン・コーンフォース (2013年没)
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