伝記
アフメト1世は、オスマン帝国の第14代皇帝で、在位は1603年12月22日から1617年11月22日である。1590年4月18日、マニサで、第13代皇帝メフメト3世とハンダン・スルタンの子として生まれた。弟に、のちに皇帝となるムスタファ1世がいる。生まれたとき、父はまだ王子で、マニサの知事であった。彼が生まれる前にマフムトという兄がいたが、1603年に父メフメト3世に殺された。
1603年、38歳で亡くなった父の後を継ぎ、13歳で即位した。メフメト2世の最初の即位に次ぐ若さで、しかも地方の太守を経験せずに即位した初めてのスルタンであった。この若すぎる即位は、父が長子マフムトを処刑したことと、父自身が若くして急死したことによる。外国語に堪能で、詩作を好み、剣術や乗馬の名手であったといい、温厚な人柄だった。弟ムスタファは後に精神の病を発症したが、その処刑には反対して、ハレム内の「黄金の鳥籠」と呼ばれる、即位できなかった皇子たちの監禁所へ幽閉するにとどめた。以後、継承のルールは明確には定まらないものの、父から子ではなく、オスマン家の年長者が継ぐ例が増えていった。若い皇帝に代わって政務は母ハンダン・スルタンが取り仕切り、アフメトは母の影響で非常に信仰心の篤いスルタンとして知られ、スルタンアフメト・モスク、通称ブルーモスクを建てたのもそのためだといわれる。
即位したとき、帝国は東西で戦争を続けていた。西のハンガリーとの長期戦争では、トランシルヴァニアなどで反ハプスブルクの反乱が起き、オスマン側は大宰相ソコルルザーデ・ララ・メフメト・パシャのもと、1604年にペストとヴァークを奪還し、1605年8月にエステルゴム城塞を包囲して10月に陥落させた。1606年には大宰相クユジュ・ムラト・パシャのもとでジトヴァ・トロク条約が成立し、互いに王でなく皇帝と呼ぶことなどが定められた。ハプスブルク家の君主をカイザーと認めたのは画期的なことで、スルタンが皇帝として次に認めたのは1774年のことであった。アナトリアではジェラーリーの反乱が起き、クユジュ・ムラト・パシャ率いる政府軍が徹底した強硬な対応で、1608年までに鎮圧した。
東ではサファヴィー朝の反撃により、1607年までにムラト3世の時代に得たコーカサスの領土を失った。失地回復を図ってユスフ・シナン・パシャがエレバンを占領し、そこで冬を過ごしたが、タブリーズを取り戻そうとアッバース1世と戦って敗れた。1612年には大宰相ナスフ・パシャが講和条約を結び、サファヴィー朝が絹200ラクダを送ることと、国境を1555年のアマスィヤの講和の線に戻すことが決まった。この年、オランダにカピチュレーションを与えている。ナスフ・パシャは1614年にアフメト1世によって処刑された。1615年に絹が送られなかったため、大宰相オキュズ・メフメト・パシャは1616年にエレバンへ侵攻したが失敗し、解任された。
1617年9月には、ポーランドとブシャの和約を結んだが、コサックとタタール人の襲撃が続いて条約は無視され、のちのオスマン・ポーランド戦争につながった。同年、チフスのため27歳で亡くなり、後をムスタファ1世が継いだ。子にはオスマン2世、ムラト4世、イブラヒムらがいる。
同じ年に亡くなった人物
- ルイス・デ・ベラスコ・イ・カスティーリャ (1617年没)
- Francois d'Aguilon (1617年没)
- ヘンドリック・ホルツィウス (1617年没)
- ドロテア・ア・ダンマーク (1546-1617) (1617年没)
- Giovanni Antonio Magini (1617年没)
同じ地域に関係する人物
- アフメト・ジェヴデト・パシャ (1895年没)
- ナイム・スレイマノグル (2017年没)
- ナズィム・パシャ (1913年没)
- ニキフォロス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教) (828年没)
- Bedrifelek Kadin (1930年没)