伝記
ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、近世スペインの小説家で、『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の作者として知られる。1547年9月29日ごろ、マドリード近郊のアルカラ・デ・エナーレスに、下級貴族の家の次男として生まれた。父ロドリーゴは外科医で、しばしば借金を抱えたり仕事を探したりして、各地を転々とした。母レオノールはアルガンダ・デル・レイの出身で、7人の子を産み、父が借金で投獄された間は一人で家族を支えた。祖先をさかのぼるとユダヤ人だったとして、セルバンテスは改宗者の家系ではないかとする研究者もいるが、諸説あり、広い支持を得ているわけではない。
少年のころから、路上に落ちている紙切れでも字が書いてあれば拾って読むほどの読書好きだったが、父の仕事が不調で、バリャドリード、コルドバ、セビーリャと移り住んだため、まともな教育は受けられなかった。1564年ごろマドリードに移り、人文学者ロペス・デ・オヨスに師事した。オヨスは1568年出版の詩文集で、セルバンテスを「わが秘蔵の弟子」と呼んで高く評価している。1569年には教皇庁の特使アックアヴィーヴァ枢機卿の従者としてローマに渡り、その後ナポリでスペイン海軍に入隊するまでの経歴は、あまり解明されていない。
1571年のレパントの海戦で被弾し、左腕の自由を失ったが、その後も4年間従軍を続け、チュニスへの侵攻にも加わった。帰国の途中、バルバリア海賊に襲われて捕虜となり、仕官のための推薦状を持っていたことが仇となって、払えないほどの身代金を課され、アルジェで5年間の虜囚生活を送った。この間、捕虜をそそのかして4回も脱出を企てたが、すべて失敗した。処刑されなかったのは、推薦状のために大物と見られたからかもしれないが、定かではない。三位一体修道会に身請けされて帰国したが、仕官は叶わず、1585年に最初の作品となる牧人小説『ラ・ガラテーア』を出版したものの、あまり評価されなかった。
同じ1585年に父が亡くなると、家計は苦しくなった。無敵艦隊の食料調達係の職を得たが、教会から強引に徴発したかどで投獄され、翌年にはアルマダの海戦で艦隊が敗れて職を失った。のちに徴税吏となるも、税金を預けた銀行が破産し、追徴金を背負わされて、1597年にセビーリャの監獄に入れられた。『ドン・キホーテ』の序文でも、牢獄の中で構想したことがほのめかされている。
1605年にマドリードで『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』が出版され、たちまち大評判となって、同年中に6版を重ねた。しかし版権を安く売り渡していたため、暮らしは向上しなかった。それでも創作を続け、『模範小説集』(1613年)、『ドン・キホーテ 後編』(1615年)を出し、遺作『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』は1617年に世に出た。1616年に69歳で世を去った。没日は4月23日とも22日ともいわれる。シェイクスピアと同日とされることが多いが、当時のイギリスは大陸と暦が異なるため、実際には同じ日ではない。彼はスペイン語圏で世界的な名声を得た最初の文学者とされ、同時代のシェイクスピアも『ドン・キホーテ』を読んでいたと言われる。1976年には、スペイン語文学に貢献した作家に贈られるセルバンテス賞が創設された。
同じ年に亡くなった人物
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