伝記
ルイス・アラゴネス・スアレスは、1938年7月28日にマドリードで生まれたスペインのサッカー選手・指導者である。主にアトレティコ・マドリードの選手、そして監督として活躍した。1957年にヘタフェからプロデビューし、「妖精」というあだ名を授かった。1958年にはレアル・マドリードと契約したが、ウェルバ、エルクレス、ウベダなどへレンタル移籍を重ね、レアル・マドリードではリザーブチームのプルス・ウルトラの試合に出ただけで、トップチームでの出場は果たせなかった。1960年にレアル・オビエドへ移ってリーグ1部初出場を果たし、1961年から1964年まではレアル・ベティスで86試合に出て33得点を挙げた。1964年の欧州選手権のメンバーにも選ばれている。
1964年から1974年まではアトレティコ・マドリードに在籍した。10シーズンでリーグ戦265試合に出場して123得点を挙げ、リーグ優勝や、1974年の欧州チャンピオンズカップ準優勝、インターコンチネンタルカップ優勝を経験した。フリーキックの名手として知られ、「大きなブーツ」と呼ばれた。1969-70年のシーズンには、ホセ・エウロヒオ・ガラテ、レアル・マドリードのアマンシオ・アマロとともに得点王を分け合った。1974年の欧州チャンピオンズカップ決勝ではバイエルン・ミュンヘンを相手に先制のフリーキックを決めたが、延長戦終了30秒前に追いつかれて1対1となり、再試合は0対4で敗れた。スペイン代表としては11試合に出て3得点を挙げている。
1974年に現役を退くと、そのままアトレティコの監督に就任した。すぐに「オルタレーサの賢者」の呼び名が定着したが、のちにジム通いで筋骨隆々の体つきになると「マッチョ」とも呼ばれた。アトレティコの監督には四度就き、1976-77年のシーズンに1部優勝、2000-01年のシーズンには2部優勝を果たした。そのほかバルセロナ、バレンシア、セビージャ、マヨルカなどのクラブも率いた。2004年の欧州選手権の終了後、解任されたイニャキ・サエスの後任としてスペイン代表の監督に就き、2006年のワールドカップではグループリーグを3戦全勝で通過したが、決勝トーナメント1回戦でフランスに1対3で敗れた。2006年9月にはラウル・ゴンサレスを代表から外し、議論を呼んだ。
2008年の欧州選手権でも3連勝でグループリーグを突破し、準々決勝では世界王者イタリアにPK戦の末に勝ち、準決勝ではロシアに3対0で快勝し、決勝ではドイツにフェルナンド・トーレスの得点で競り勝って、スペインに44年ぶり2度目の優勝をもたらした。ゲンを担ぐ性格で、準決勝ではアウェー用のユニフォームを着ることを嫌い、ユニフォームの色は黄色ではなく「からし色」だと主張したという。大会後にトルコのフェネルバフチェの監督となったが、リーグ戦4位、チャンピオンズリーグはグループリーグ敗退という成績で、2009年6月に解任された。2004年には、代表の練習中にティエリ・アンリへ人種差別的な発言をしたことが明らかになり、スペインサッカー連盟が罰金を科される騒動もあった。本人は人種差別主義者であることを否定している。2014年2月1日、マドリードの病院で死去した。
同じ年に亡くなった人物
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