伝記
アンリ・カルティエ=ブレッソンは、1908年8月22日、フランスのセーヌ=エ=マルヌ県シャントルーに生まれた写真家である。父は、フランスの裁縫箱の定番だった糸を作る織物の製造業者で、母方の家はノルマンディーの綿商人・地主であった。一家はパリの中流の住宅街に暮らし、親の経済的な支えがあったため、彼は同世代の誰よりも自由に写真に打ち込めたという。少年のころはボックス・ブラウニーで休日にスナップ写真を撮った。父は息子が家業を継ぐものと考えていたが、本人は意志が強く、その将来を恐れていた。
5歳のころから叔父ルイの画室で絵を習ったが、叔父が第一次世界大戦で戦死して、レッスンは途切れた。1923年ごろにシュルレアリスムの影響を受け、1927年にはキュビスムの画家で彫刻家のアンドレ・ロートの私塾に入って、1928年にかけて学んだ。ロートからは、後に写真の構図や形の問題を解く土台になる厳しい理論の訓練を受けたが、規則の多い教えにはいらだちも覚えた。当時は、芸術への野心に燃える画家志望の青年にすぎず、自分の初期の絵の大半を壊してしまったという。
本格的に写真に取り組み始めたのは1931年で、きっかけはシュルレアリストのマン・レイの写真に刺激されたことだった。ただし、35ミリカメラのライカで撮るスナップ・ショットを基本とする姿勢は、フォトコラージュなどを使うシュルレアリスムの写真とは異なっていた。1933年にはニューヨークで初の個展を開いたが、熱烈な支持者を得たのは一部にとどまった。スペイン(1932年から1933年)とメキシコ(1934年)に撮影旅行をし、1935年から1939年には、ポール・ストランドやジャン・ルノワールの助手として映画の仕事にも携わった。1936年にパリの新聞社への就職を試みて失敗し、同じ境遇だったロバート・キャパやデヴィッド・シーモアと、カフェで偶然に出会った。
第二次世界大戦中はフランス軍に勤務し、ドイツ軍に捕らえられて捕虜となった。2回の脱走に失敗し、のちに成功して、戦争が終わるまでレジスタンス運動に加わった。戦死したという噂が流れたため、1946年にはニューヨーク近代美術館で回顧展が開かれ、無事だった本人が出席した。1947年には、キャパ、シーモア、ジョージ・ロジャー、ウィリアム・ヴァンダイヴァーらとともに写真家集団「マグナム・フォト」を結成した。雑誌の依頼でヨーロッパとアメリカを回り、1948年から1950年にはインドで暗殺前後のガンディーを、中国では国民党の最後と中華人民共和国の誕生後を半年ずつ、さらにインドネシアの独立を撮った。1954年にはカメラマンとして初めてソ連への入国を許され、1965年には日本に5か月ほど滞在した。
1952年に出版した写真集『決定的瞬間』は、1932年から1952年に撮った写真を集めたもので、表紙には画家アンリ・マティスのコラージュが使われた。仏語の原題は「逃げ去る映像」の意である。1966年にマグナムを退会し、1967年にはジャワ出身の舞踏家ラトナ・モヒニと30年の結婚生活を終えて離婚した。1970年には写真家マルティーヌ・フランクと再婚し、1974年以降は画家の仕事に傾いた。「人の写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになる」と語っている。2004年8月3日、南フランスのプロヴァンスの別荘で、95歳で死去した。パリ14区には、写真の保護を目的とするアンリ・カルティエ=ブレッソン財団がある。
同じ年に亡くなった人物
- デルフィン・ベニテス・カセレス (2004年没)
- フアン・カルロス・アランブル (2004年没)
- ジャン・グラチィク (2004年没)
- ベイヤーズ・ノーディエ (2004年没)
- Jacques Noel (2004年没)
同じ地域に関係する人物
- オレグ・ブリヤク (2015年没)
- ジャック・ティボー (1953年没)
- マリア・ラドナー (2015年没)
- Taos Amrouche (1976年没)
- ジャン・ジオノ (1970年没)