伝記
エルドレッド・グレゴリー・ペックは、1916年4月5日にカリフォルニア州サンディエゴのラ・ホヤ地区で生まれたアメリカ合衆国の俳優である。アイルランドとイングランド系の薬剤師の父と、イングランド系の母ベルニス・メイ・エアーズの一人息子で、母は夫の宗教であるカトリックに改宗していた。信仰に厳しい両親だったが、彼が5歳のときに離婚し、祖母に育てられた。10歳でロサンゼルスのカトリックの軍事学校に送られた。
ボート競技の選手としてオリンピックを目指してカリフォルニア大学バークレー校に進み、ボート部で活躍したが、戦争で大会が中止になって参加できなかった。ボートの練習で負った脊椎の損傷が原因とされ、兵役も免除された。薬剤師の父の影響で医学を学んでいたが、1936年ごろから演劇に興味を持ち、大学で五つの芝居に出た。学費を稼ぐため、一年休学して運送会社でトラックの運転手として働き、料理人の助手も経験した。卒業後はニューヨークに出て、俳優養成学校のネイバーフッド・プレイハウスで演技を学んだ。金に困って公園で寝ることもあり、劇場の案内人やタクシーの運転手もした。こうした経験が、荒くれのカウボーイ、密漁船の船長、残忍な復讐鬼、いかさま賭博師、ベテランの偵察員など、一見似合わない役柄の演技に生きたとされる。ブロードウェイで舞台に立ったのち、1944年に映画に初出演し、四つの契約を携えてハリウッドに着いた。
1946年の『子鹿物語』でアカデミー主演男優賞に初めてノミネートされ、翌年にはユダヤ人問題を扱った社会派ドラマ『紳士協定』でも2年続けてノミネートされた。この作品がアカデミー作品賞を受賞したことで、ハリウッドでも指折りのスターとなった。『ローマの休日』では、新聞記者の役を演じて、オードリー・ヘプバーンの才能をいち早く見抜き、本人やスタッフに助言を与え、映画の成功に貢献したと伝わる。共同製作者としてウィリアム・ワイラー監督と組んだ西部劇『大いなる西部』では、チャールトン・ヘストンと身長190センチの大男どうしの格闘を演じた。1962年には、自主製作の『アラバマ物語』で、念願のアカデミー主演男優賞を受賞した。
初期からの紳士的なイメージは1970年代初めまで続いたが、1976年のオカルト映画『オーメン』以降は性格俳優の雰囲気を帯び、1978年の『ブラジルから来た少年』では狂気の科学者を演じた。『オーメン』の撮影の2か月前には、息子を拳銃自殺で亡くしている。1996年に一度引退を表明したが、2年後にはテレビ映画『モビー・ディック』に出演した。政治ではリベラルな発言が多く、リチャード・ニクソン大統領の政敵リストに載せられたという。政界進出を勧められても、すでに大統領役や偉人を何人も演じたと言って断った。アカデミー協会や俳優組合の会長、アメリカ癌協会の理事も務め、二度の結婚で5人の子をもうけた。2003年6月12日に没した。同年、アメリカン・フィルム・インスティチュートが選んだ映画のヒーロー第1位に『アラバマ物語』の弁護士フィンチが選ばれた。日本語吹き替えは、城達也がほとんどの作品で専属として担当した。
同じ年に亡くなった人物
- ハロルド・スコット・マクドナルド・コクセター (2003年没)
- クリエンサック・チョマナン (2003年没)
- ジョニー・ポール・コロマ (2003年没)
- Stellan Nilsson (2003年没)
- バートラム・ブロックハウス (2003年没)
同じ地域に関係する人物
- ライオネル・バリモア (1954年没)
- ティーナ・マリー (2010年没)
- Geraldo Francisco dos Santos (2021年没)
- ビル・チルデン (1953年没)
- ジェームズ・マーシャル (1885年没)