HISTORICAL PERSON · 2003年没

エドワード・テラー

ハンガリー生まれでアメリカに亡命したユダヤ人の理論物理学者。「水爆の父」として知られ、ローレンス・リバモア国立研究所の設立を提案した。ヤーン・テラー効果でも知られる。

生涯
2003年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / スタンフォード)
出生地
ハンガリー(ブダペスト)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

エドワード・テラーは、1908年、オーストリア=ハンガリー帝国のブダペストに生まれた物理学者である。父は弁護士、母は銀行家の娘で4か国語をこなす才媛であり、裕福なユダヤ人の知識階級の家庭だった。幼いころから算数の才能を見せ、学校に上がる前に足し算と引き算に加えて、かけ算まで覚えたという逸話がある。11歳だった1919年3月、ハンガリーではクン・ベーラ率いる共産党が政権を奪ってソビエト共和国を建て、資産家階級とされた人々の企業や土地を国有化した。このため父のマックスは弁護士の職を失い、一家は貧窮した。同じ年の8月にこの政権はホルティ・ミクローシュ率いる軍に倒されたが、クンも共産党指導部の多くもユダヤ人だったため、伝統的な反ユダヤ主義とホルティによる白色テロが高まり、一家は1926年にハンガリーを去ってドイツへ移った。彼が18歳のときである。

ブダペストでは短期間、化学工学を学んでいた。ドイツでも化学と数学を学び、1930年にライプツィヒ大学のヴェルナー・ハイゼンベルクのもとで物理学の博士号を取った。その後、ゲッティンゲン大学の助教授として2年を過ごした。1933年にヒトラーが政権を握り、反ユダヤ主義政策を取りはじめると、1934年にドイツを離れる決心をした。一時イングランドに滞在し、ニールス・ボーアのいたコペンハーゲンで1年を過ごしたのち、1935年8月にアメリカ合衆国へ移住した。直前の1934年2月に、初恋の人ミチと結婚した。同じハンガリー出身のレオ・シラードが、アインシュタインの署名入りの書簡を使って、アメリカ政府に原子爆弾の研究を働きかけた際には、ユージン・ウィグナーとともにその活動に加わった。

1941年までジョージ・ワシントン大学で教え、そこでガモフに出会った。1942年にマンハッタン計画に参加し、ロスアラモスの理論物理学部門で、核分裂だけの爆弾から核融合を用いた水素爆弾へ、核兵器を発展させるべきだと強く主張した。1945年のニューメキシコでの世界初の原爆実験に立ち会い、「なんだ、こんなちっぽけなものなのか」と述べたとされる。戦後は、具体的な警告なしに広島を爆撃したのは不必要で間違いだったと述べ、東京湾上空での夜間のデモンストレーションを代案とした。1946年にシカゴ大学の教授になったが、1949年にソ連が核爆発に成功すると、1950年にロスアラモスへ戻って水爆計画に携わった。水爆を「マイ・ベイビー」と呼んでいたという。実際に作動する水爆の設計を、スタニスワフ・ウラムとともに思いついたとき、計画の長には選ばれず、再びロスアラモスを去って、1952年にカリフォルニア大学のローレンス・リバモアの支部に加わった。1954年、身上調査の審問でロバート・オッペンハイマーを非難したことが元で、オッペンハイマーは公職を追われ、科学者たちとの溝は広がった。

1950年代には、核爆発でアラスカに大規模な人工港をつくる「チャリオット作戦」を公表したが、先住民を中心とする反対運動が高まり、計画は幻に終わった。1958年から1960年にかけてリバモア研究所の所長を務め、1975年に引退して名誉所長となった。引退後も核計画の推進を唱えつづけ、1982年にレーガン大統領からアメリカ国家科学賞を贈られた。原子核物理学や分子物理学で多くの業績があり、ヤーン・テラー効果やBETの吸着等温式で知られる。2003年9月、カリフォルニア州スタンフォードで95歳で亡くなった。水爆の開発については、相互確証破壊が核戦争を防いだとして、生涯肯定し、悔いることはなかった。

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