伝記
イラン・ラモーンは、1954年6月20日にイスラエルのラマト・ガンで生まれ、2003年2月1日に亡くなったイスラエル空軍のパイロットで、イスラエル人として初めて宇宙飛行士となった人物である。スペースシャトル・コロンビア号のSTS-107ミッションにペイロードスペシャリストとして搭乗し、大気圏への再突入の際に起きた事故で、ほかの6人の乗組員とともに死亡した。48歳で、乗組員の中では最年長だった。
生まれたときの姓はヴォルファーマンで、空軍に入る際により「イスラエルらしい」ラモーンの姓に改めた。当時の空軍のパイロットや軍の上級将校には、それが慣例だったという。父はドイツ出身で、一家は1935年にナチスの迫害を逃れ、母と祖母はポーランド出身で、アウシュヴィッツ強制収容所の生き残りだった。名のイランは、ヘブライ語で「木」を意味する。ベエルシェバで育ち、1972年に高等学校を卒業した。1987年にはテルアビブ大学で電子工学とコンピュータ工学を修めた。
空軍では、1972年に戦闘機パイロットの課程を始めたが、手を骨折して学業を一時中断した。第四次中東戦争では、シナイ半島で電子戦の部隊に務め、のちに飛行学校に戻って、1974年に課程を修了した。A-4の部隊を経て、1976年から1980年にはミラージュIIIの部隊に所属した。1980年には、イスラエルが新しく購入した戦闘機F-16の最初の部隊をつくるメンバーの一人に選ばれ、ユタ州のヒル空軍基地で訓練を受けた。1981年には、イラクの建設中の原子炉を爆撃した作戦に最年少のパイロットとして参加し、この作戦では10人のイラク兵と1人のフランス人研究者が死亡した。1982年のレバノン戦争にも出撃している。その後、F-4の部隊の副隊長、F-16の部隊の隊長を務め、1994年に大佐に昇進した。兵器の開発と取得を担当する部門の長となり、1998年までこの職にあった。A-4、ミラージュIII、F-4を合わせて3000時間以上、F-16で1000時間以上の飛行を重ねた。
1997年にペイロードスペシャリストに選ばれ、砂漠のエアロゾルを記録するマルチスペクトルカメラを含むミッションのために、1998年7月からヒューストンのジョンソン宇宙センターで訓練を受けた。STS-107は2003年1月16日から2月1日に行われた16日間の科学と研究のミッションで、乗組員は2交代制で24時間働き、約80の実験を行った。ラモーンは世俗的なユダヤ教徒と考えられているが、宇宙でも伝統を守り、宇宙飛行士で初めて、戒律にかなった食事を求めたという。「自分は全てのユダヤ教徒、全てのイスラエル人を代表していると感じている」と語っている。アウシュヴィッツで命を落とした少年ペトル・ギンツが描いた鉛筆画『月の風景』、イスラエル大統領から与えられたモーセ五書のマイクロフィルム、ホロコーストの生存者の団体と選んだ有刺鉄線のメズーザーを持ち込んだ。ミッションは、地上への到着予定の16分前に、コロンビア号が空中分解し、乗組員7名が死亡して終わった。
宇宙で書かれた37ページの日記は、奇跡的に焼け残り、妻のローナのもとに届けられた。ローナはこれをエルサレムのイスラエル博物館に寄贈した。ラモーンは、アメリカの合衆国名誉宇宙飛行士勲章を受けた外国人としては、唯一の人物である。
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