伝記
セーサル・ミルスタインは、1927年10月8日にアルゼンチンのバイアブランカで生まれた生化学者である。父ラサロはウクライナ出身のユダヤ系移民で、母はマキシマといった。ブエノスアイレス大学を卒業し、生化学教授ストッパーニのもとでアルデヒド脱水素酵素の研究を行って博士号を得た。1956年には、この酵素の反応速度の研究によってアルゼンチン生化学研究会から賞を受けている。1953年にセリア・プリレルテンスキーと結婚した。
1958年にブリティッシュ・カウンシルの支援を受けてケンブリッジ大学の生化学教室に入り、マルコム・ディクソンの指導のもと、ホスホグルコムターゼという酵素が金属イオンで活性化される仕組みを研究した。この研究のなかで、短期の医学研究評議会の任用を得てフレデリック・サンガーのグループに加わり、共に働いた。やがてケンブリッジの医学研究評議会分子生物学研究所の一員となり、イギリスに帰化して、アルゼンチンとの二重国籍を持った。
研究生活の大部分は、抗体の構造と、抗体の多様性が生まれる仕組みの解明に費やされた。最初はアミノ酸のレベルでの抗体の多様性と、抗体を束ねるジスルフィド結合を調べ、この研究の一部は妻のセリアとともに行った。その後、研究の対象は抗体をコードする伝令RNAに移り、分泌されるポリペプチドの前駆体にシグナル配列があることを、初めて示した。1975年には、研究室のポスドクだったジョルジュ・ケーラーとともに、モノクローナル抗体をつくるためのハイブリドーマの技術を確立した。この発見によって、科学や医療の目的で抗体を大量に作れるようになり、利用が爆発的に広がった。1984年に、ニールス・イェルネ、ケーラーとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。
モノクローナル抗体の技術の改良にも大きな貢献を重ねた。細胞の種類を見分ける標識としての利用や、クラウディオ・クエーリョとの共同研究では、神経疾患をはじめ多くの病気の仕組みを探る探針としての利用の基礎を築いた。組み換えDNA技術を抗体に応用すれば豊富な結合試薬が生まれると見通し、より安全で強力な治療用の抗体につながる抗体工学の分野の発展も促した。核酸の配列決定の進歩とハイブリドーマの技術を組み合わせて、抗原に出会った後の抗体の変化を追い、免疫グロブリンV遺伝子の高頻度の突然変異が重要であることを示した。晩年はこの突然変異の仕組みの解明に向けられ、死ぬまで1週間に1報のペースで論文を書いたという。
1975年に王立協会のフェローとなり、1980年から2002年までダーウィン・カレッジのフェローを務めた。1980年にウルフ賞医学部門とルイザ・グロス・ホロウィッツ賞、1982年にフランクリン・メダルとロイヤル・メダル、1989年にコプリ・メダルを受け、1993年にはアルゼンチンのコネックス財団から、過去10年で最も重要な科学者として同国で最も権威ある文化賞のダイヤモンド・コネックス賞を贈られ、1995年には名誉勲位を受けた。抗体研究の分野の多くの人々の導き手となり、発展途上国の科学と科学者の支援にも力を注いだ。2002年3月24日の早朝、長く患っていた心臓病のため、ケンブリッジで死去した。74歳だった。
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