伝記
シモ・ヘイヘは、1905年12月17日、フィンランド南部のラウトヤルヴィに生まれた軍人で、狙撃兵である。ロシア連邦との国境線から約4キロメートルの小さな町で、8人きょうだいの7番目として、ルター派の農家に育った。軍人になる前は農民兼猟師で、キツネを撃つのが得意であり、スキーも好んだ。学校は村の小学校に通い、農場の仕事では長兄を手伝った。
若いころに民兵組織の民間防衛隊に入り、射撃の大会にたびたび出て、家には腕前で得た多くのトロフィーが飾られていたという。農家の昼休みに、ほかの男たちが昼寝をする中、ヘイヘだけは森の端につけておいた目標を、建物の窓から空砲で狙い、全員が起きてくるまで練習を続けた。1925年に15か月の兵役義務で陸軍に入り、自転車大隊で新兵の訓練を受け、下士官学校を経て兵長になった。兵役が終わると予備役となり、民間防衛隊に戻った。
1939年から1940年にかけての冬戦争で予備役兵長として招集され、故郷に近いコッラー川周辺の防衛にあたる歩兵連隊の第6中隊に配属された。指揮官のアールネ・ユーティライネン中尉は、民間防衛隊での射撃の成績などを見て、ヘイヘを特定の小隊に置かず、最も能力を生かせる狙撃兵の任務を与えた。気温が氷点下40度にもなる酷寒の中で、純白の雪上迷彩服に身を包んで狙撃し、赤軍の兵士からは「白い死神」と呼ばれて恐れられた。使った銃は、旧宗主国ロシアのモシン・ナガン小銃を土台に、フィンランドで改良されたM28-30で、白衛軍の計画で、ヘイヘが自費で改修資金を払って手に入れ、平時から自宅で愛用していたものである。身長約155センチと小柄なヘイヘは、120センチ以上ある銃を手足のように扱い、狙撃の場所を見つけられにくかったといわれる。照準器は使わず、銃身についた鉄製の照星と照門だけで撃った。猟師時代から慣れた射撃の姿勢がとれ、装備が軽く、レンズの反射光で位置を知られることもないためである。寒中で息が白くなるのを防ぐため、雪を口に含みもした。
公式に確認された戦果は542人で、狙撃で倒した数としては世界の戦史上で最多とみられる。ただし、狙撃銃以外の火器による数は含まれておらず、サブマシンガンの名手でもあって、非公式の数を合わせれば、これよりも多いと言われる。これらは戦争の開始から負傷するまでの約100日間の記録とされる。赤軍は、ヘイヘを排除するため、砲撃や敵の狙撃兵の配置などの対策をとった。終戦の1週間前の1940年3月6日、赤軍の砲撃で飛び散った破片が顎に当たり、重傷を負った。助け出した兵士が「頭が半分なくなっていた」と述べるほどの傷で、意識不明のまま収容された。戦友には戦死と伝えられ、病院でお別れの会まで行われたが、そのさなかに生きていることがわかったと、本人は晩年に語っている。意識が戻ったのは3月13日で、このときモスクワで講和条約が結ばれ、すでに冬戦争は終わっていた。顎には生涯消えない傷痕が残り、愛用の銃もこの混乱で失われた。
戦後はマンネルヘイム元帥に会い、勲章を受け、兵長から少尉へと異例の特進を果たした。退役後は猟師や農家、猟犬の繁殖家として暮らし、生涯独身だった。控えめな性格で、従軍体験を語ることは少なく、狙撃の秘訣を問われても「ひたすら練習するだけだ」と答えた。多数のソ連兵を射殺したことについては、「義務を果たしただけだ」と語っている。2002年4月1日、国境に近い町ルオコラハティで96歳で死去した。2004年のフィンランド国営放送の投票「最も偉大なフィンランド人」では、74位に選ばれた。
同じ年に亡くなった人物
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